第21話 レイナ
その日の夜、俺はなかなか寝つけなかった。
理由はわかっている。昼間、相沢と話したことが頭に残っていたからだ。
懐かしそう。寂しそう。
明日香が相沢を見る時の目を、相沢はそう言った。
レイナ。
明日香が初めて相沢を見た時に零した名前。
相沢玲奈ではない。たぶん、明日香がいた世界にいた誰か。
明日香は俺の知らない場所で、俺の知らない時間を生きてきた。その中に、相沢に似た誰かがいた。
そう考えると、妙に胸の奥が落ち着かなかった。
「……寝れねえ」
呟いて、ソファーから起き上がる。水でも飲もうとキッチンへ向かう途中、ベランダのカーテンが少しだけ揺れていることに気づいた。
窓がわずかに開いている。
「またか」
思わず苦笑する。
近づいてみると、やっぱり明日香が外にいた。
古いジャージ姿のまま、手すりに軽く手を置いて夜の街を見ている。銀色の髪が夜風に揺れて、月明かりを受けていた。
「風邪ひくぞ」
声をかけると、明日香が振り向いた。
驚いた様子はない。俺の気配には気づいていたらしい。
「起こしちゃった?」
「寝れなかっただけだ」
「そう。私も」
「奇遇だな」
スリッパを履いて、ベランダに出る。
夜風は少し冷たいが、眠気の残った頭を冷やすにはちょうどよかった。
しばらく、二人で黙って街を見ていた。
遠くで車が走る音がする。けれど、明日香はもうそれに身構えない。数日前なら、警戒していたはずだ。ちゃんと、少しずつ慣れている。
だからこそ、聞くなら今かもしれないと思った。
「明日香」
「なに?」
「相沢のこと、よく見てるよな」
明日香の横顔が、ほんの少しだけ強張った。
風で揺れた髪が頬にかかる。明日香はそれを指先で押さえながら、こちらを見なかった。
「気づいていたの?」
「俺だけじゃない。相沢も気づいてた」
「相沢さんも」
明日香は小さく息を呑んだ。
「私、変な見方をしていたかしら」
「そこまでじゃない。ただ、何かしたかなって気にしてたぞ」
「そう……。悪いことをしてしまったわね」
「嫌がってる感じじゃなかったよ。むしろ好かれ過ぎてるかもって浮かれてたぐらいだ」
「彼女らしいわね」
「とは言え疑問には思ってたけどな」
明日香は少しだけ頷いた。
それから、夜の街へ視線を戻す。
「相沢さんって、明るくて、距離の詰め方が上手くて、ふざけているように見えて、ちゃんと周りを見ている人よね」
「相沢の評価が高いな」
「伊吹くんも、そう思っているでしょう?」
「否定はしない」
面倒な奴ではある。騒がしいし、すぐアニメの話を持ち出すし、何かと俺をからかってくる。でも、いい奴なのは間違いない。
「レイナも、そういう人だったの」
その名前が出た瞬間、俺は黙った。
明日香は少しだけ迷うように、ジャージの袖を握る。
「向こうの世界に、相沢さんによく似た人がいたの。名前はレイナ。私と同じ勇者だったわ」
「勇者って、明日香だけじゃなかったのか?」
「1人だけじゃないわ。国や地域ごとに、魔王に対抗するため選ばれた人がいたの。正式な称号というより、人々がそう呼んでいた、という方が近いかもしれないけど」
「じゃあ明日香は?」
「白銀の勇者。そう呼ばれていたわ」
「白銀の勇者……」
思わず繰り返す。
似合いすぎていて、逆に反応に困った。銀色の髪。真面目な性格。人を守ろうとする姿勢。そう呼ばれていたと言われても、何の違和感もない。
「レイナは、陽光の勇者と呼ばれていたの」
「陽光?」
「ええ。金色の髪で、笑うと周りが明るくなるような人だったから」
それは確かに相沢と重なる。金色の髪。明るい性格。場の空気を動かす力。似ているところが多い。
「同い年くらいだったのか?」
「たぶん。同年代で、同性で、同じ勇者で……。私にとっては、数少ない対等な相手だったわ」
「レイナも転移者だったとか?」
「それはないわ。日本のことは何も知らなかったから」
明日香の声は静かだった。
「向こうでは、私を見る人の目がいろいろあったの。助けを求める目。期待する目。命令しようとする目。怖がる目。崇める目。守らなきゃいけない人も多かったし、守ってくれようとする人もいた。でも、隣に立ってくれる人は少なかった」
「レイナは、その1人だったのか」
「ええ」
明日香は頷く。
「最初はうるさい人だと思ったわ。初対面なのにいきなり名前で呼んできて。『アスカって呼んでいい? あたしのこともレイナでいいから』って」
「相沢と同じこと言ってるな」
「でしょう?」
明日香が少しだけ笑う。
「距離が近くて、強引で、よくからかってきて。こっちが真面目に考えていると、横から余計なことを言ってくるの」
「まんま相沢だな」
「でも、戦場では頼りになったわ。判断が早くて、人を動かすのが上手くて。怖がっている人にも、笑って話しかけられる人だった」
そこで明日香は、少しだけ目を伏せた。
「私はみんなを守りながら魔王の討伐に向かっていた。レイナも別の場所から同じように戦っていたの。戦局の都合で少しの間だけ一緒に旅をしたんだけど、長い時間ではなかったわ。だからこそ、私にはすごく大事な時間だったわ」
「そっか」
短く返すことしかできなかった。
明日香は俺の反応を確認するように、ちらりとこちらを見る。
「重い話になっちゃってるかしら?」
「まだ大丈夫だ」
「まだ?」
「戦場で命がどうとか、そういう話が本格的に出てきたら、俺の処理能力を超える」
「そうね。伊吹くんは、こっちの人だものね」
「明日香もこっちの人だろ。俺と同じな」
そう言うと、明日香は少し俯いた。
それから、小さく頷く。
「……ええ」
夜風が吹く。
しばらく沈黙が落ちたあと、俺は聞いた。
「それで、そのレイナとはどうなったんだ?」
踏み込みすぎたかと思ったが、明日香は怒らなかった。
ただ、夜の街を見る目が少しだけ遠くなる。
「途中で別々の戦場に向かうことになったの。魔王の軍勢が広がって、一か所に戦力を集められなかったから。それからは会えていないわ」
明日香の髪が、風にさらりと揺れる。
「魔王を倒した後、探したの。生きているならもう一度会えると思ったから。でも、見つからなかった。どこにもレイナの名前はなかった」
「死んだってことか?」
「わからない」
明日香はすぐに答えた。
「生存報告はなかった。でも、死者の墓石にも名前は刻まれていなかった。だから、私は死んだとは言わない。どこかで生きているかもしれないし、私と同じように元の世界に帰ったのかもしれない。何かの理由で、姿を隠しているのかもしれない」
そう言ってから、明日香は小さく息を吐く。
「ただ、会えなかった。それだけよ」
それだけ。明日香はそう言った。
けれど、それがどれだけ大きいことなのか、俺にも少しくらいはわかる。
会えなかった。
だから今も、相沢を見るたびに、どこかで重ねてしまうのかもしれない。
「相沢さんは、レイナとは違う人よ」
明日香が静かに言った。
「そんなことわかっているの。でも、もしかしたらレイナがまた、私をからかっているだけなんじゃないかって。どこかで思ってしまうの」
「それで見てたのか」
「ええ。相沢さんには悪いことをしたわね」
「別に悪いことじゃないだろ。言ったろ? むしろ浮かれてたって」
「強がっていただけじゃなくて? 伊吹くんに不安だったから相談したんじゃなくて?」
明日香が横目でこちらを窺い見る。
杞憂しがちな性格なのか、或いは明日香も鋭いタイプなのか。
どちらにしても、俺は首を横に振る。
「さあな。なんにしても、正直に言ってやればいいんじゃないか?」
「なんて?」
「ごめんなさい。向こうにいた子に少し似てたの。くらいでいいだろ。最終的に相沢も、あたしに似てる人がいたのかな? とか言ってたしな」
明日香は少し考えてから頷いた。
「そうね。そうするわ」
「あと、相沢に似てたなら、そのレイナも相当面倒だったんだろうな」
あえて軽く言うと、明日香は懐かしむように笑った。
「ええ、とても。勝手に二つ名を増やしてくるし、私の服装に文句をつけるし、作戦会議中に甘いものを食べようとするし、魔物を倒した数で競ってくるし。魔法に変な名前をつけて遊んでいるし」
「想像以上に相沢っぽいな」
「でも、嫌いじゃなかったわ」
その声は、とても柔らかかった。
「相沢が知ったら調子に乗るぞ。陽光の勇者に似てるとか言われたら、普通に喜ぶ」
「相沢さんなら、自分は世界を越えても可愛い、と言いそうだわ」
「絶対に言うな」
「ふふっ。私も相沢さんの解釈が高まってきたわね」
二人して、少し笑った。
夜風が吹く。
さっきまで少し重かった空気が、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
「話してくれてありがとな」
そう言うと、明日香はこちらを見る。
「私の方こそ、聞いてくれてありがとう」
「俺は聞いただけだ」
「それが嬉しいの」
真っ直ぐ言われると、返事に困る。
困るので、俺は夜空を見上げた。
「そろそろ戻るか。夜更かしすると明日の朝さらに起きられなくなるからな」
「それは困るわね」
「困るのは俺な。明日香は起こされるだけなんだから」
「私だって、起きられなかったら朝ごはんがゆっくり食べられなくなるもの」
「ならすんなり起きてくれ」
明日香は少しだけ困った顔をして、それから笑った。
「なおらないのよね、これ」
「いや諦めるなよ」
明日香は、ふふっと笑って窓へ向かう。
部屋に入る直前、ふとこちらを振り返った。
「伊吹くん」
「なんだ」
「レイナは私にとって大切な人だった。でも、相沢さんは相沢さんだって、ちゃんとわかってる」
「ああ」
「だから、相沢さんともちゃんと仲良くなりたい」
その言葉に、俺は頷いた。
「大丈夫だよ。普通にしてれば仲良くなれる」
「そうだといいわね」
明日香は小さく笑い、リビングへ戻っていった。
俺は最後に一度だけ、夜の街を見る。
レイナ。陽光の勇者。相沢玲奈に似た、明日香の大切な人。
異世界には、そんな人がいたらしい。
いや。異世界、なのか。
ふと、そんな考えが頭をよぎった。
けれど、今はまだ深く考えないことにした。
明日香が少しだけ話してくれた。
それだけで、今夜は十分だった。




