第2話 帰国子女
「……はぁ?」
間の抜けた声が自分の口から出た。
母さんはそんな俺の反応を気にも留めず、腕時計をちらりと見てから明日香の肩を軽く叩く。
「大丈夫だからね、明日香ちゃん。伊吹がいるからもう安心」
「なにが大丈夫で安心なのか全然わからないんだけど」
「とにかく、いま説明する時間ないから簡単に言うから」
「わかりやすく頼む」
「明日香ちゃんのお父さん、私のお兄ちゃんね。お兄ちゃんは今も海外にいるの。仕事も向こう、生活も向こうだから。で、今回は必要な手続きのために日本に戻ってきたんだけど」
「必要な手続きって?」
「明日香ちゃんが日本に残れるための手続き。戸籍とか保護者とか学校とか、そういう面倒なやつ。詳しい内容大人の事情だから割愛するとして」
まあ、そこは割愛してもらってもいいか。俺には関係なさそうだし。
「だから、うちで預かることになったの」
「いやだからなんでうちで預かるんだよ。叔父さんは?」
「海外にいるけど?」
「じゃあ明日香は」
「明日香ちゃんは日本に残ることになったの。だからうちで預かるってわけ」
その言葉を聞き、明日香を見る。
明日香はきちんと姿勢を正したまま立っていた。さっき抱きついてきた時の照れがまだ少し残っているのか、耳のあたりがうっすら赤い。
俺の視線に気づくと、真面目な顔で口を開いた。
「私が日本に残りたいってお願いしたの。また知らない場所へ行くのは少し不安だったから。……ここは、まだ見覚えがある場所があった。だから、ここに残りたいってお願いしたの」
その言葉選びが妙に引っ掛かる。
『日本に残りたい』
『まだ見覚えがある場所』
明日香は小さい頃に叔父さんと海外に行ったきりだ。日本に帰ってきたという話しは聞かなかった。
久し振りに日本に来たら残りたくなったのか? 仮にそうだとしても、海外で過ごしてた時間の方が長い。そっちで過ごした方が住み心地に慣れてるはずだ。
海外で引っ越すことになったから、だったら日本に帰りたくなったってことか?
「あとね」
考えている途中で、母さんが口を開く。
「明日香ちゃんが、伊吹がいた方が安心するって」
「俺がいた方が安心する?」
首を傾げながら明日香を見ると、彼女は困ったように、それでも笑みを浮かべて答える。
「うん。久し振りに伊吹くんと会って、やっぱり安心したから」
真っ直ぐな蒼色の瞳に、無垢な笑顔。
そんな顔を見せられたら、俺は顔を背けるしかなくなる。
なぜなら恥ずかしいから。俺は弱い男である。
「とにかく!」
仕切り直すみたいに、母さんが手を叩く。
「明日香ちゃんはうちで面倒を見るから。学校も通わせる。私立で帰国生の受け入れにも慣れてるとこだし。書類も揃ってるから問題なし。伊吹もいるし」
「待て。まさか俺と同じところか?」
「当然でしょ? 伊吹と同じクラスに編入できるようにもう話は付けてあるから。細かいことは気にしないで」
「編入ってそんな簡単にできるもんなのか?」
「大人同士で話はつけてあるから。伊吹が気にするところじゃないの」
有無も言わさぬ断言だ。そこまで言うなら話は通ってるんだろうけど。
となると、残る問題はひとつだけ。
「百歩譲ってそれはいい。なんで俺が世話係みたいになってるんだよ」
「年近いし、家事できるし、明日香ちゃんも伊吹だと安心するし。伊吹ならできるでしょ?」
「俺の事情は?」
「こ~んなに可愛い子のお世話ができるんだから、事情もへったくれもないでしょうに。贅沢な子ね」
母さんはそう言うと、明日香の背後に回って肩へ手を置いた。
「な、なんですか?」
明日香が振り向くより早く、母さんがその耳元にふっと息を吹きかける。
「ひゃっ!?」
次の瞬間、明日香の姿がぶれた。
そう見えたくらい、動きは速かった。
驚いた明日香は逃げるように俺の背後へ回り込み、そのまま肩にそっと手を置く。半分隠れるみたいに身を寄せて、母さんの方を涙目で警戒していた。
「な、なにするんですかっ!」
白い頬は耳まで真っ赤で、目元にはうっすら涙まで滲んでいる。さっきまでの落ち着いた雰囲気はどこへやら、今は完全に不意打ちを食らった小動物みたいだ。
「ほら、こんなに可愛い」
「論点はそこじゃないんだが」
いや、まあ、可愛いけど。しかも明日香は可愛く見せようなんてこれっぽっちも思っていない。その分だけ余計に愛くるしく見える。
そこで明日香も、咄嗟に俺の背中に隠れてしまったことに気付いたらしい。
「あっ……」
肩に添えられていた手がぴくりと揺れる。
明日香は目を丸くしたあと、ますます顔を赤くして、慌てて俺から離れた。
「ご、ごめんなさい! その、驚いて、つい……」
「今のは母さんが悪いから。明日香が謝ることじゃない」
そう伝えるも、明日香は気まずそうに視線を伏せたまま、耳まで赤くしていた。
そんな彼女を見ながら、母さんは頷く。
「うんうん。やっぱり伊吹がいれば安心そうね」
「納得のしかたが強引すぎる」
「そんな冷たいこと言わないの! 血のつながった従妹なんだから!」
「冷たいか? 俺」
自問自答していたところで、母さんがちらりと時計を見た。
「そろそろ仕事に戻らないと」
「この状況でよくそんなこと言えるな」
「わたしだってちゃんと説明してあげたいとは思ってるんだから」
残念そうな声を出しながら、まったく残念そうじゃない顔でバッグを持ち直す。
「夜には帰るから、それまでよろしく」
「なにをよろしくしとけばいいんだよ」
「明日香ちゃんにはわたしの部屋つかってもらって。あと――」
母さんはそこで一拍置いた。何か思い出したみたいな顔で、あっさり言う。
「明日香ちゃん、異世界帰りだから」
「……はぁ?」
「そこんとこ、よろしくね」
「いや、はぁ?」
今度こそ、本当に間の抜けた声が出た。




