第18話 不思議な疲れ
夜中に目が覚めた。理由は単純にトイレだ。
リビングのソファー生活も二日目になると、慣れたような慣れていないような微妙な感じになってくる。眠れないわけじゃないが、熟睡できているかと言われると怪しい。
俺は起き上がり、できるだけ音を立てないようにトイレを済ませた。そのままキッチンへ向かい、冷蔵庫から麦茶を取り出してコップに注ぐ。
「……ふぅ」
冷たい麦茶を飲むと、少しだけ目が覚める。
すぐ横になると腹のあたりが気持ち悪くなりそうだったので、しばらくキッチンに立ったまま、ぼんやり暗いリビングを眺めていた。
テレビもついていない。母さんは俺の部屋で寝ている。明日香は母さんの部屋だ。数日前とは違う家の夜。
けれど、不思議と違和感はない。明日香が来てからまだ二日目。それなのに、だいぶ彼女に慣れた気がする。
そう思った時だった。母さんの部屋の扉が、ほんの少し開いた。
反射的に息を潜める。
別に隠れる必要はない。ないのだが、夜中に誰かがそっと部屋から出てくると、つい様子を窺ってしまう。
扉の隙間から明日香が顔を出した。昼間と同じく、俺の緑ジャージ姿だ。袖は余っていて、片手で扉の縁を掴んでいる。銀色の髪は少しだけ乱れていて、寝る前よりも柔らかい雰囲気になっていた。
薄暗い部屋でキッチンに立ってる俺には気付かないだろう。実際、母さんなら気付かないはずだ。こっそり近付いて驚かしてやろうか。
なんて考えていると、明日香は迷いなくこちらを見た。
「伊吹くん?」
薄暗闇の中、明日香の蒼眼がこちらを見据えているのがわかる。
「よ、よく気づいたな」
思わず声が出た。
「隠れて驚かしてやろうかと思ったんだけど」
「気配がしたから」
「気配? 息は止めたんだけど」
「呼吸で気配は消せないわ、大切なのはイメージよ。闇に身を溶かすように、身体から力を抜くの。眠るように様に瞳を薄めて、けれど意識を保つ」
実践しているのか。そこにいるはずの明日香の存在が薄くなる。
がたん、と物音がした。俺の部屋、母さんが寝相でなにかにぶつかったのか。意識がそちらに向いた微かな合間で、明日香は目の前からいなくなっていた。
「へっ?」
「ほら。こうやって相手の後ろを取るの」
背後から声が聞こえて、肩に手を置かれた。振り返ろうとすると、頬に指がぶつかる。
明日香の指だ。
いたずらに、えへへと笑う明日香だが、あまりの凄さに怒る気にもならない。
「ちょっと凄すぎてコメントに困る」
「そう? 夜に身を隠す基礎の基礎よ。伊吹くんも練習すれば出来るようになると思うけど」
「マジ? かっこいいから教えて欲しいかも」
それはちょっと興味あるわ。相沢にしてやったら大喜びしそうだし。
と、思ったところで明日香の目が鋭くなる。
「……やっぱり教えてあげない」
「なんで?」
「なんとなく。嫌な予感がしたから。伊吹くんには教えてあげません」
何かに引っかかったのか、明日香は頬を膨らませながらリビングの方へと歩いていく。
なんか変なこと言ったか? 俺。なにも思い当たらないんだけど。
「で、どうした?」
「え?」
「トイレか?」
「あっ、い、いえ。そういうわけじゃないんだけど……」
さっきまでの余裕はどこへ行ったのか、妙に落ち着かない顔をしている。少し慌てたように、余った袖を握った。
「えっと、その……。よ、夜風に当たりたくなったの」
夜風、か。そういえば昨日の夜も明日香はベランダに出ていた。その前には俺が寝ていると思って名前を呼び、頬をつついていて遊んでいた。
……まさか今日もそれをやるつもりだったのか? とは聞けない。なぜなら俺は、あの時ずっと寝たふりをしていたからだ。
ここで『昨日みたいに俺にいたずらしに来たのか』と聞いたら、寝たふりをしていたことが完全にバレる。それはそれで面倒なことになりそうだ。
「伊吹くんは? どうして起きているの?」
「喉が渇いただけだ。麦茶飲んで、少し立ってた」
「そうなの」
「ああ」
「……」
「……」
微妙な沈黙が流れる。薄暗いリビングで、俺はキッチンに立ったまま。明日香はリビングで袖を握ったまま。どちらも寝るには少し目が覚めてしまっている。
俺はコップを流しに置いた。
「少し話すか?」
そう言うと明日香は、何度か大きく瞬きをした。それから、小さく頷く。
「ええ」
短い返事を受けて、ベランダへ出る。
夜風は昨日より少しだけ冷たい。明日香は腕を組み、身体を温める様にしている。
「寒いなら戻るぞ」
「大丈夫。フェンリルの鼻息と比べたら、春を感じるその風のようなものよ」
明日香はそう言って、手すりの近くに立った。
相変わらずいまいちわからん例えなのに、地味に興味がそそられる。フェンリルの鼻息って寒いの? 住んでる地域が寒いだけじゃなくて? あと絶妙なポエム口調なのはなんなんだよ。絶妙に興味がそそられるんだよなぁ。
そんなことを思いつつ、俺も隣に並ぶ。
昨日と同じベランダ。同じ夜。同じように静かな時間。それでも、明日香の表情は昨日とは少し違っていた。
昨日は、どこか遠くを見ているような顔だった。
今日は、少し迷いながらも、ちゃんとこの街を見ているように見える。
「寝れなかったのか?」
「眠れないというより、目が冴えてしまったの」
「疲れてるのに?」
「疲れと言っても精神的なものだから。教室も、クラスメイトとの会話も、向けられる視線も。全部初めてみたいなものだったわ」
「勉強も初日から頑張ってたしな」
「ええ。でも、不思議ね」
明日香は街を見下ろしながら、小さく笑った。
「嫌な疲れではないの」
その声は、思っていたより穏やかだった。
「向こうにいた頃は疲れている時ほど早く眠らないといけなかったわ。次にいつ休めるかわからないし、寝ているところを襲われる可能性もあったから。でも今日は違う」
「というと?」
「明日のことを考えていたら、目が覚めてしまったの」
明日香がこちらに目を向ける。
「明日も学校に行くのよね?」
「平日だからな」
「相沢さんや、クラスの人たちにもまた会う。授業もある。漢字はたぶん今日より難しいし、朝もちゃんと起きないといけない」
「最後が一番怪しいな」
「そこは頑張るわ」
明日香は少しむっとした顔をしたが、すぐに表情を緩めた。
「大変だと思う。でも、楽しみでもあるの」
「楽しみ、か」
明日香は学校を怖がっていない。それどころか、明日を少し楽しみにしている。
正直、1日通してかなり気を張っていたので、もう行きたくないと言うと思っていた。あっちの世界で剣を振っていた方が楽だったと。
だが、それは杞憂だったらしい。
「いいことだな」
「いいこと? いいこと……」
明日香はその言葉を確かめるように繰り返し。
「そうね。いいことなのかもしれないわ」
夜風が吹く。明日香の銀髪が揺れて、ジャージの袖が靡く。
「じゃあ問題は寝起きだな。まずは起きなきゃ学校に行けない」
「それは……。私には伊吹くんがいるから大丈夫よ」
「人任せな勇者だな」
「私はもう勇者やないけど、寝起きの悪さは直らない。それは今日、確信に変わったわ」
胸を張って自信満々にそういう明日香。
「なんでだよ。そこはなんとか頑張れよ」
「だって、伊吹くんに見られちゃったんだもん。もう誰に見られても同じだもの」
「言ってる意味がわかんねえよ」
見られる見られないじゃなくて、自分で起きれるようになれよ。
「全く。まだまだわからんな、明日香のことは」
困った奴だ。なんて思っているはずなのに、自然と頬が緩んでしまう。
それはなぜなのか。
「さ、そろそろ寝るぞ。寝坊したら朝飯抜きになる可能性があるからな」
「それは嫌ね……」
明日香はかなり真剣な顔で頷いた。
朝飯抜きという言葉は、元勇者にもよく効くらしい。
「なら、そろそろ寝るぞ」
「ええ。……あっ、待って」
部屋に戻ろうとしたところで、明日香に呼び止められる。夜風に揺れる銀色の髪を片手で押さえながら、少しだけ言いにくそうにこちらを見ている。
「明日のお昼。また家庭科室で食べたいんだけど」
「別にいいけど。他の奴と食べなくていいのか? 相沢とか、昼に誘ってくるかもしれないぞ。今日話してた女子たちも」
「それは……。嬉しいけど」
明日香はそう言ってから、少し考えるように目を伏せた。
「でも、まだ少しだけ緊張するの。たくさんの人に囲まれると、どうしても気を張ってしまうから」
「まだ初日が終わったってだけだからな」
「ええ。それに、家庭科室は落ち着くから。静かだし、周りの視線もないし」
「飯もあるし?」
「それもあるけど」
明日香は余ったジャージの袖をきゅっと握った。
「伊吹くんと一緒だから……。だから、明日も……。その、家庭科室がいいの」
「ああ。学校生活に慣れるまで、面倒は見てやるよ。明日も弁当作っとく」
「本当?」
「朝飯のついでみたいなもんだからな。似たようなおかずになるのは許してくれよ」
「ええ。ありがとう」
明日香はほっとしたように笑った。
明日香からすれば、学校で俺は唯一と言っていいほど気を遣わない相手だろうし。昼飯は気を張らずに食べたいだろうしな。それぐらいなら協力しよう。
「じゃあ、明日もちゃんと起きろよ」
「が、頑張るわ」
「そこは自信持ってくれ」
「努力はするわ」
明日香は少しだけむくれたあと、すぐに小さく笑った。
「それじゃあ、おやすみなさい。伊吹くん」
「ああ。おやすみ、明日香」
部屋に入り、ベランダの窓を閉める。
昨日と同じ夜のはずなのに、今日は少しだけ違っていた。
明日香は明日を怖がっていない。それだけで、ぐっすり寝るには十分だった。




