第17話 着たい服
家に着く頃には空が夕方の色に染まり始めていた。いつもならイヤホンでもつけて、適当に考え事をしながら歩くだけの道だ。
だが、今日は隣に明日香がいる。
「綺麗な空ね。もう飛行系の魔物を見ることはないのかしら?」
「なに? 魔物って飛べるの?」
「当然よ。制空権を取られていない戦いなんて殆どなかったわ。常に上を気にしていないと、空から魔物がズドンで、命がぺちゃんよ」
「擬音のせいで怖さが伝わってこねえよ」
子供のような語彙力に、思わず笑ってしまう。
マンションの前に辿り着くと、明日香がうちの部屋を見上げる。
「ここが綿野氏の帰ってくる場所なのね」
「そうだな。しばらくはここが明日香の帰る場所だ」
「しばらくなの?」
「別に深い意味で言ったわけじゃない。気にしないでくれ」
慌てて言うと、明日香は少しだけ笑った。
慣れた足取りで部屋へと進み、鍵を取り出し玄関の扉を開ける。
いつも通りの家。
母さんはまだ帰ってきていない。明かりの消えた廊下と、静かなリビング。
靴を脱ごうとしたところで、隣から小さな声がした。
「ただいま」
明日香は玄関の内側へ向かって、少し照れたように、でもはっきりそう言っていた。
「どうしたの?」
「いや、なんでもないよ。おかえり」
明日香は頷いて、それから嬉しそうに微笑む。
「うん。ただいま、伊吹くん」
「いや、俺も一緒に帰ってきたんだけどな」
「そうね」
明日香はくすっと笑う。
その笑顔を見て、胸の奥が少しだけむず痒くなる。
昨日まで一人で開け閉めしていた玄関が、妙に違う場所みたいだった。
「とりあえず手洗いうがいだ。むこうでもやってたか?」
「いいえ。向こうで水は貴重だったから。汚れは神聖魔法で払ってたわ」
「それで払えるの汚れじゃなくて穢れじゃないの?」
「ん? 伊吹くん、なにを言ってるの? 穢れ?」
そんな『はて?』みたいに首を傾げないでくれ。アニメで得た知識をこれ見よがしに言ってみせたら本場の人に呆れられたみたいで恥ずかしくなるから。
「なんでもない。ともかくうがいだ」
そのままうがい、手を洗いをしっかりしてからそれぞれ部屋着に着替える。
リビングに戻ると、明日香はソファーに座っていた。昨日渡した、俺の緑色の学校指定ジャージ姿で。
袖は余っているし、裾も少しだぼついている。どう考えてもサイズは合っていない。なのに、それが明日香だと妙に可愛く見えるから困る。っていうか。
「なんでそれ着てるんだ?」
「え?」
明日香は自分の袖を見下ろした。
「これ?」
「母さんが部屋着買ってきてただろ。明日香用のやつ」
「ええ。見たわ」
「ならそっち着ろよ」
そう言うと、明日香はジャージを引っ張りながら答える。
「でも、これでも問題ないから」
「問題はあるだろ。サイズ合ってないし」
俺の匂いついてるし。
「ゆったりしていて動きやすいけど?」
「それはぶかぶかって言うんだよ。モノとか持ちにくいだろ」
「柔らかいし」
「買ってきた部屋着の方が柔らかいと思うぞ」
「それに……」
明日香はそこで言葉を止めた。余った袖をきゅっと握り、少しだけ頬を赤くする。
「それに?」
「き、昨日から着ているから、慣れてるの」
「一日で慣れるのか?」
「一日でも慣れるものは慣れるの! フィットするの!」
なんだその理屈。さっきゆったりしてるって言っただろ。それはフィットしてないっていうんだよ。
明日香は俺の視線から逃げるように、袖口をいじっている。何か言い訳を探しているようにも見えるが。
「別に、嫌なら無理に着替えろとは言わないけど」
「嫌っていうわけじゃないけど」
「じゃあなんでそんな必死なんだよ」
「必死じゃないわ。合理的な判断よ」
「どこがだ」
「今日は疲れたから、慣れた服の方が落ち着くの」
んー……。そんなもんか?
まあ初登校で一日中気を張っていたのは事実だ。ようやく家に帰ってきて、少しでも落ち着くなら、無理に着替えさせるほどでもない。
「今日はいいけど」
俺がそう言うと、明日香の表情がぱっと明るくなった。が、その前に釘を刺す。
「でも、これずっと着られると困るんだよ」
「困る?」
「俺の体操着がなくなる」
「あっ」
明日香はそこで初めて気づいたみたいに、袖を見下ろした。
「学校で使うやつだからな。明日香が着続けたら俺が困る」
「それは、たしかによくないわね」
明日香は真面目な顔で頷いた。
よかった。納得してくれたか。そう思った直後。
「じゃあ伊吹くん。他の服を用意してくれる?」
「なんでそうなる」
まったく納得してなかった。むしろ要求してきやがった。
「明日香用の部屋着があるって言ってるだろ」
「でも、新品は少し落ち着かないの」
「新品が?」
「ええ。きれいすぎるというか、まだ身体に馴染んでいないというか」
明日香は余った袖をきゅっと握りながら、もっともらしい顔で続ける。
「部屋着は、少しぶかぶかで、よれよれで、柔らかい方がいいと思うの。戦闘服とは違うんだから、きちんとしすぎていると休まらないわ」
「まあ、そりゃそうだけど」
「でしょ? だからこれは落ち着くの」
そう言って、明日香は俺のジャージの袖を少しだけ持ち上げた。
言い訳としては苦しい気もするが、気持ちはわからなくはない。俺も着古したヨレヨレのシャツは大好きだ。母さんに『さっさと捨てろ』と言われるぐらいヨレているのが一番いい。
とは言え明日香に俺の服を渡すのもなぁ……。
「ちなみに向こうの戦闘服ってどんな感じだったの?」
「なに? 急に」
「好奇心だけど」
不思議そうに首を傾げる明日香。
「やっぱり鉄の塊を全身に付けてたのか?」
「そういう人もいたけど、私は動きやすさ重視で選んでいたわ。魔物の腕力からすれば鉄なんて紙屑同然だし、鉄に身体を傷つけられることもあったから」
ふむ、なるほど。人それぞれらしいが、明日香はそういう感じだった、と。
「突然なんの質問?」
「いや、わかった。何か俺の服を探しておく」
「本当!?」
明日香の顔がパッと明るくなる。
「古いスウェットとか、適当に着られそうなやつな。けど、それは今日までだ。さすがにこの時期に半袖体育はきつい」
「ええ。わかったわ」
明日香は真面目に頷いた。だが、袖口で口元を隠しながら、ほんの少しだけ笑っているのが見える。
どうやら隠しているつもりらしい。全然隠せてないけど。
「嬉しそうだな」
「そ、それは……。伊吹くんに理解してもらえて嬉しかっただけよ」
「ヨレヨレシャツな。気持ちはわかるけど」
俺はため息をつきながらキッチンへ向かった。
夕飯の準備をしようと冷蔵庫を開けかけて、ふとリビングの方を見る。
明日香はソファーに座ったまま、テレビを眺めていた。
緑色のぶかぶかジャージに身を包み、余った袖を口元まで持ち上げている。画面ではニュース番組が流れていたが、内容を理解しているのかどうかは怪しい。
それでも、明日香は妙に満足そうだ。袖口を頬に押し当てたり、鼻先に近づけたりして、すぐに何事もなかったようにテレビへ視線を戻す。
「……まあ、今日くらいはいいか」
聞こえない程度に呟き、俺は夕食の献立に頭を悩ませた。




