千年の重み
安政3年11月5日(1856年12月2日)
弥助が江戸に戻って半年以上が過ぎた。
この間、彼の生活は規則正しく過ぎていったと言っていい。
変わらぬ4日サイクルの生活で、先ず2日間は試衛館で稽古、3日目は清河塾で稽古と賭場を開き、4日目は自照院に寄って住職と茶を飲む。
朝晩はすっかり寒く、吐く息も白くなって室内では火鉢が欠かせない季節。
清河塾のある一角の木々の葉も枯れ晩秋の趣となっているが、元がボロいだけに完全に廃墟にしか見えない。
弥助はこの日、清河塾の中庭で塾生たちに稽古をつけている。
防具を着けた激しい稽古のおかげで、全く寒さを感じることはない。
「弥助さん....ちょっといいかい?」
間もなく稽古が終わりという時間に差し掛かった時、剣術指導中の彼に清河八郎が声をかけてきた。
2人は性格的にも思想もまるで違う者同士だったが(弥助の場合思想自体に興味がないが)、同じ歳という事もあって今ではすっかり友人付き合いだ。
尊王攘夷についても弥助は『ワシは頭が悪い』と勉強自体投げ出しているのに、清河はそれを咎めないどころか面白がっている。
清河八郎という男が、そもそも一方的に教えを詰め込むような講義をしないので、『清河塾』には自由闊達な空気が出来上がっていた。その辺りのやり方は、同時代の松下村塾などと近いモノがある。
この時代の知識人たちはそうやって切磋琢磨し、時代を乗り越える思想を練り上げていた。
そしてもう一つの顔である『賭場』の運営に関して言えば、2人は完全に共犯の関係でもあった。
「今日も沢山の客が楽しみに来てくれる。ソイツはいいんだが....。」
「うん?」
弥助は門弟たちに稽古の終了を告げると、清河と2人塾の中へ入って行く。
寒空の中で稽古をつけていた弥助の身体からは、白く湯気が上がっていた。
「千客万来ながら我々は大して儲かってない。博打の胴元ってのはこんなに儲からないもんかね?」
「なんじゃ、そんな事か。」
清河は首をひねる。非合法運営というリスクを負っている以上、もう少しリターンがあって然るべきと思っているのだ。オマケに此処での稼ぎはそのまま、今後の彼の尊王攘夷活動に繋がってくる。
2人は清河の自室で対面する。
行儀よく端座する清河に対し、ドサリと足を投げ出す弥助。
「そうじゃなあ、モチロン儲けは出そうと思えば出せる。」
弥助は笑いながらアドバイスする。
「取り分を増やせばええんじゃ。下足預かり、駒の両替、そんな所で小銭を集めてもいい。ワシが賽を操って親の総取りを増やしたっていい。」
いずれも今から増やしていけば、客にとっては面白くない事ばかりだ。
最後の手段に至っては完全なイカサマである。
「それじゃあ客は黙っちゃいないだろう。」
「そうでもない。ただし来なくなる人は出てくるじゃろ。」
『カジノ清河』の客はみな大店の旦那ばかりなので、手間賃を多目に貰う事にしても文句は出ないだろう。
それでも一部の客は別の賭場に流れる事もあり得る。まして勝ちが少なくなったりすれば、更に多くの客を失う。
ここから西へ少し行けば、歓楽街の内藤新宿がある。賭場も探せば幾つか見つけることが出来るだろう。
「そうだなあ、余り極端なことも出来ないな。」
もっとガッポリ儲かるイメージを持っていた清河は、残念そうな気持が表情に出ている。
もとが真面目な男だけに、こういった非合法な事柄には疎かった。『悪いヤツらほどクソ儲けてる』くらいにしか思っていなかったのだ。
「八郎さん、もともと博打ってのはそんなもんじゃ。」
弥助はそんな清河を慰めて言う。
「博徒の親分っていうのは、そもそも地元自警団の長って人が多い。揉め事の仲裁が主な仕事だったから、ケンカの多い祭りの仕切りや賭け事の胴元をやるようになったんじゃ。」
清水の親分がそうだった。弥助は次郎長一家を懐かしく思い出す。
「そんな親分たちが、地元の男たちを食い物にするような真似をする筈もない。血の気の多いヤツらに、遊び場を提供してやっておるだけじゃ。それほど儲けなんぞ出るようなもんじゃない。」
そう言われて清河はガクッと項垂れる。
「そんなモノか.....やはり手っ取り早く銭を稼ぐ方法なぞ無いものだな。」
「まあまあ気楽にいこうや、別に損しとる訳じゃない。」
弥助としてはこんな生活は面白く過ぎていった。
世の中を変えるほどの力を持つ『帰還者』としては、こんな事でええのか?と思わないでもなかったが。
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そしてこの半年、サクヤとの連絡はさほど頻繁にはなかった。
何しろ向こうからはほとんど現れる様子もない。
「おい、サクヤ。聞こえとるか?」
余りにも連絡のない日が続くと、弥助は今日のように内藤新宿の歓楽街まで出張っていく。
そこから少し外れたところにある、花園神社へ参拝に行くためだった。ここのご神体もサクヤである。
折しも境内と参道では、年末の風物詩である酉の市で大変な人出であった。
今年は三の酉まであるらしい。そこいらじゅうに『火の用心』の張り紙があった。
「なにようっさいわね。アタシャこれでも結構忙しいのよ。」
その割には呼べばすぐに眼前に現れるサクヤ。
「悪かった。今日が一の酉じゃったか。」
「なに?ああ、酉の市ね。これはアタシと関係ないのよ。タケルの奴が合祀されてっから。」
良く分からないことを言っているので詳しく聞くと、花園神社には大鳥神社がくっついているらしい。
花園神社のご神体はあくまでサクヤだが、酉の市は日本武尊が主神であるそうな。
「人が多すぎじゃ。表で茶でも飲もうかい?」
弥助がそう言って茶屋へ誘うと、女神はホイホイついて来る。
「守護神にお供えしようっていうのね?いい心がけだわ!」
そういう台詞は守護神らしい事をしてから言えと弥助は思う。
しかしサクヤに相談する事は、甚だ遺憾ながら弥助には参考になる。多少不満でも話を聞きに来ざるを得ない。
「別に言いふらして歩いとるわけじゃないが、『修験道の聖地で修行した』『武士の世を終わらせるとお告げがあった』みたいな話を、コレ!という人物にはしとるんじゃが。」
弥助は現状をそう説明する。
何かアクションを起こしたいが、残念ながら自分は農民出身のエセ浪人。
ツテもなければ金もない。
自分の能力をサラッと伝えることで、誰かの行動を引き起せないか....と近頃の弥助は考えていた。
「別に構わないわよ。アンタの好きにやんなさいって言ったでしょ。」
サクヤは内藤新宿『追分団子』のミタラシ団子を頬張ってご満悦だ。
「焦ることはないの。千年続いた武士の時代が終わろうって時に、そんな簡単に物事が進むはずないでしょ?」
言われてみればその通りだ。
「それにどうやら、アンタの作戦が実を結びそうよ。」
サクヤは弥助の顔をじっと見つめて、そんな事を告げる。
余りに気安く話せるせいで気にも留めていないが、これってご神託というヤツじゃろと弥助は思う。
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サクヤとそんなやり取りがあった数日後、清河塾での賭場の翌日、弥助はいつも通り自照院で太刀を振るっていた。
庭の銀杏の木が黄金色に色付いている。
日差しは明るく境内を照らし、落ち葉が舞い落ちる様子が美しい。
弥助は落ちて来る葉の一つ一つに意識を集中し、目をつむったまま太刀を振るって斬り払っていく。
その目にもとまらぬ動きは、見る者に非現実的な存在 ―― 神とか妖精とか —— を想起させる。
その人間離れした斬撃は、次第に弥助から遠い位置にある葉にまで及んでいくが、弥助の立つ位置は変わっていない。つまり手が届くはずのない葉を、ピシリピシリと斬り払っている。
「何とも不思議の技を使われる御仁じゃ。」
自照院の奥の茶室には、住職の照顕と共に2人の若い男が、茶を喫しながら弥助を注視していた。
開け放たれた茶室の障子越しに見ると、弥助が剣を振るう空間が一幅の絵のように見える。かなり離れているので見えにくいが、目を凝らせば落ち葉が切り裂かれる驚異の瞬間が見えた。
『茶を喫している』というのは2人の状態を記述したに過ぎない。
実際の2人は茶どころの騒ぎではない。顎が外れるかというほど口を開け、驚嘆の思いで弥助の剣技をただ見つめていた。
ようやくポツリとつぶやいた男が、講武所槍術教授方の高橋精一郎である。
今年で数え歳の21歳。この若さでの講武所教授方へのお取り立ては、異例中の異例だった。
その槍術は『神技』と称され、後に従五位下伊勢守に任じられている。
『この時代に武術で取り立てられた馬鹿はあの男くらいのモノ』とは、後に勝海舟が高橋を称えて言った言葉である。
「兄上、あれは不思議の技などという生易しいモノではない。まさに天狗じゃ!和尚の申される通りじゃ!」
もう1人の若者がそう叫ぶ。
高橋を兄と呼ぶ男は、一つ年下の山岡鉄太郎であった。
彼もまた若くして講武所で剣術を学び、千葉周作の教えを受けた後、今年から講武所世話役となった逸材だ。
高橋泥舟・山岡鉄舟、『幕末三舟』と後に呼ばれるウチの2人である。
するとこれほど離れているのに、鉄太郎の声が聞こえたらしい。銀杏の葉を切り裂いていた弥助が、じっとこちらを見つめている。
「ほれ、天狗が気付きおった。」
照顕和尚がさも嬉しそうに、2人に向かってそう告げた。




