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鼻笑い

 安政3年3月20日(1856年4月20日)


 江戸の町は変わらぬ喧騒の中にあるようだった。


 というのは数年ぶりに江戸を訪れた、弥助と歓之助の感想であって、江戸っ子たち当人は戦々恐々とする毎日を過ごしている。

 言うまでもなくその原因は、外国からもたらされた脅威。


 2年前に浦賀沖へ米国戦隊を率いたペリー提督が上陸して以来、各国の幕府に対する開国圧力が瓦版やら噂話やらで続々と、江戸で生活する人々へもたらされる。


 ソレはもう現代のフェイクニュースも赤面するほどのデタラメっぷり。


 夷人どもが子供を拐って連れていくとか、コレラ以上の疫病が下田で流行ってるとか、駿府徳川領に腕自慢の猛者が集結中....などなど勇ましいやら被害妄想やらが入り乱れている。

 ただ混沌としているのを、武芸者の2人は『江戸は相変わらず賑やかじゃの』くらいに眺めているからお気楽なものだった。


 勿論2人も外国船についてはいくらも耳にしている。

 しかし歓之助にとっては九州から遥か離れた場所での話であり、弥助でいえば隔絶された地上での話。


 事の重大さがイマイチよく分かって無かったし、何なら他人事と言ってもいいほど関心は無い。

 実際彼らが乗ってきた米廻船にしても、航行日程をかなり制限された中での運行だったのだが、知らぬとは強さだ。


 幸運な事に大きな時化にも遭わず、順調に江戸へ到着した2人は、意気揚々と練兵館のある九段坂上を目指す。

「文では伝えてある。弥っちゃんも道場へ泊まると良い。」

 寄宿する弟子たちのために、江戸の剣術道場には必ず宿泊施設が併設されていた。


「ああ、まあ大先生が何とおっしゃるかだ。」

 ふらりと道場を飛び出した自分を、大先生は決して愉快な気持ちで出迎えまい。


 弥助は弥九郎先生に拒絶される事も覚悟していたし、今となってはその辺りの事はどうでも良かった。


 永代橋を渡って|隅田川(おおかわ)を越えた2人。

 久々の日本橋界隈を見て回りつつ、夕刻には九段坂上に到着した。


「か、歓之助先生!おおーい!皆の衆!!歓之助先生が到着されたぞお!!」

 門の傍にいた若い弟子たちが、遠くから目ざとく歓之助を見つける。


「歓之助先生!無事ご到着で何よりでございます!」

「歓之助どの!此度は遠征のご成功おめでとうござります!!」

 丁度稽古を終えたあたりだったのか、20名ほども弟子たちが押し寄せプチパニックである。


「ああ、ハイハイ分かった分かった。皆心配かけたな。こちらの弥助殿の助太刀で、無事岩国の遠征を終えることが出来た。皆も弥助殿に感謝するがいい。」


 弥助が練兵館を飛び出たのは22歳の歳である。

 もう4年の月日が過ぎているのだから、若い弟子たちは弥助の事を知らぬ者が多い。


 それでも練兵館に伝わる『閻魔』の伝説は数多い。

 これがあの『閻魔の弥助』か.....若者たちの視線は、好奇心と恐怖の入り混じった色をしている。


「すまんが誰か弥助殿を個室にご案内してくれ。暫し道場へお泊りの予定じゃ。」


「若先生、お待ちくだされ。」

 良く響く声に目をやると、体格のいい青年が斎藤家の母屋から現れた。

 年の頃は歓之助と同じ23、4というところ。整った眼元に筋の通った鼻立ち。口元は頑固な性格を現すのか、ぐいっとへの字に曲がっている。


「小五郎、久しいな。」

 斎藤道場塾頭、桂小五郎である。


「ご無沙汰いたしております。弥助さんもお久しゅうございます。」

 桂は長州藩の士分でもあるが、百姓出身の弥助に対しても礼を見せた。


「桂さん、久しぶりです。」

 弥助は年下の塾頭に頭を下げた。こういう処は道場によっても決まりが違うが、斎藤道場はあくまで出身身分で上下を厳格に区別する。


「......弥助さん、なんかデカくなってませんか。私と変わらぬ背丈に見えますが....。」

 桂は理不尽な弥助の変化に少々面食らっている。

「丁度良かった小五郎、弥助殿の宿泊の事だが....。」


 桂はお待ちを、と再び慇懃に歓之助を制すると、2人に向かって大先生がお待ちでございますと告げた。

「先ずはそのまま、奥にお通り下さい。」

 申し訳なさそうに桂はそう言った。


 幸先は良くなさそうだ、と弥之助は苦笑する。


<<<<<<<<<<<<<<<


 幕末の剣豪、斎藤弥九郎は自室で書を読んでいる。

 心が落ち着かぬ時、いつもそうして静めるのだが、今日はサッパリ効き目がない。

 眼は同じところを通りすぎ、全く頭には入って来ない。


(疫病神が戻って来おった。)

 どうやって弥助を追い返すか、この数日その事ばかりが頭を占めていた。

 同じ村の出身という事で百姓の倅を気まぐれに預かったが、門弟にするつもりは毛ほどもなかった。

 それがいつのまにやら十松殿に取り入り、ちゃっかりと道場で稽古を始めると、その後の成長ぶりは瞠目するほどのモノがあった。


(その才は極めて邪道。一度見た技は悉くモノにするが魂が入っておらぬ。)

 禿頭、白鬚、金壺眼と絵にかいた仙人のような面立ちは、イメージ重視の人格と重なる。

(百姓の出で斎藤家の跡継ぎを凌ぐなど....あってはならぬし認めるわけにもいかぬ。)


 自身も百姓の出なのだが、そんな些事は意に介さない。今や江戸の3大道場と呼ばれるまでになり、雄藩の指南役を輩出している。

 家柄にあこがれ名誉に飢え続けた弥九郎。

 同じ境遇の後進が疎ましくてならない。


(我が道場は文武両道!あのような無学のモノをどうして取り立てられよう?)


 自身のタテマエを思い出した弥九郎は、外からの声にパタリと書を閉じる。

「入んなさい。」


 スッと障子が開き、歓之助と弥助が室内へ入ってきた。


「2人ともご苦労だった。まあ座んなさい。」

 下手に座布団が準備されている。

「宇野金太郎に無事勝利したと聞いた。先ずは重畳。」


 弥九郎はにこりともせずそう言った。

 眼が合った弥助から伝わる気配が少々違う事に、若干戸惑いを覚えた。

(コヤツ....何か雰囲気が違うの?)


 その前に身体のサイズが全然違うのだが。


「父上、その件では弥助殿に一方ならぬお力添えを頂きました。この上は是非とも弥助殿の恩義に報いるためにも、道場で師範としてご活躍いただくべきと愚考致します。」


 歓之助は手をついておやじ殿にご注進するも、弥九郎の返事は決まっている。


「弥助、此度はご苦労だった。」

 歓之助には答えず、大先生は弥助に語りかける。

「道場の面目も保たれた。これは感謝したい。」

 気持ちの籠らぬ謝礼に対し、弥助はフンと鼻を鳴らす。


 弥助の態度は弥九郎をイラッとさせるのに十分だった。

(コヤツ...ワシへの態度が変化しておるな。)


 以前は性根定まらぬ腑抜けのような返事で、ひたすら自身のいう事をへいへいと聞いていた弥助が、事もあろうに大師匠のいう事を鼻で笑おうとは!

 弥九郎は怒りを面に出して話を続ける。


「オノレはワシに貸し1つとでも思っておるのだろうが?ああ?そのような考えはサッサと捨てることだな。ワシの練兵館は無学無知の者を一人前の武士とは認めぬ!真の武士とはそのようなモノなのだ!」


 自身の持てる威圧感を振り絞り、弥九郎は同郷の若者を追い詰めようとする。

 歓之助は横で怒りに青ざめているが、父親の言い分に逆らえずにいた。


 やがて弥助は再びフンと鼻を鳴らす。


 弥九郎大先生は.....激怒した。

「キサマ!!事もあろうにワシに向かってその態度は何じゃ!!大恩あるワシを愚弄するか!」

 

 脇差でもあれば抜刀している勢いで、斎藤弥九郎は弥助に激高した。それは両者の立場を考えれば、大人げないと謗られるような行為である。


 しかしそれだけ弥助の存在は、弥九郎へ重圧をかけていたという事でもある。

 無名の百姓に道場の名誉が守られた、そのこと自体が弥九郎にとって屈辱的でもあった。


「父上...それはあまりと言えばあまりな仰せ。弥助殿は我らのために....。」


「黙れ歓之助!そもそもその方が不甲斐ない故、このような恥辱を受けるのだ!見よ、この男の太々しい面を!いかにも恩を着せてやったと言わんばかりではないか!」


 ここにきて弥助は面倒になった。

 元々練兵館に期待していた訳ではない。むしろ弥九郎大先生の反応は予想通りだった。


 歓之助の面子を考えればこそ、勧めに従ってここまで同行したのだ。

 これ以上ここにいれば、歓之助を追い詰めることになりかねない。


「大先生、もうお止しなされ。歓之助殿まで責められるとは大人気のうござる。」

 弥助はそう言い放つ。


 唖然とする弥九郎大先生。歓之助も目を見張って驚きの表情だった。


「こ、こ、コヤツ...ワシに向かって...。」

 言葉が出ぬほど驚く大先生に、弥助はサラッと語りかける。


「ワシャそもそもこの道場に、何の期待もしちょりませんし。それに此処まで修行してこれたのは、ひとえに岡田十松先生に目をかけていただいたからじゃ。」

 

 お前に感謝を期待していない。おまけに大恩などない、弥助はそう言っている。


「ワシの望みは対外試合の場を得ることのみですじゃ。間もなく消えてなくなる武士などになりたくもないし、ましてやこの道場に仕事もいらぬ。それだけはご承知おきいただこう。」


 哀れ弥九郎大先生は、禿げ頭を赤くしたり白くしたり、怒りのあまり言葉も出ない。


「先ほどはご無礼仕った。思わず鼻が鳴ってしまったのはそう言う訳じゃ。あまりの見当違い振りが可笑しくなっての。」


 弥九郎の言い分は、自信の気持ちから見れば見当違いも甚だしい。思わず笑ってしまったのはそういう訳だと弥助は釈明した。


 まあそれでも無礼なのには変わりないが。


 言葉を失った親子に、弥助は暇を告げた。

「ほんじゃあワシはこれで失礼仕る。お2人ともご自愛くだされ。」


 それだけ言うとサッサと弥九郎の自室を出て、玄関へと足を向けた。

 すると部屋の外に控えていた桂が、弥助の後を追いかけてくる。


「弥助さん!ちょっと!お待ちを!」

 音を殺してと息だけで叫ぶ桂を振り返ると、桂は超笑顔だった。


「弥助さん...やりますよねえ。昔のアナタとはえらい違いだ。」

 廊下を歩きながら、桂はクックッと忍び笑いだ。

 彼方から弥九郎大先生の怒鳴り声と、歓之助の詰る声が微かに聞こえる。


「まああれぐらい仰るのが適当と思います。弥助さんは悪くない。」

 桂はそのまま帰ろうとする弥助の腕を引っ張る。


「せっかく此処まで足を伸ばされたんです。道場にも是非お寄りください。皆、弥助さんに会いたくてウズウズしてるのです。」


 弥助は桂の対応に戸惑っていた。この男は入門後1年で塾頭にまでなったエリートでもあり、それほど親しい間柄ではなかった。


「私はアナタにどうやっても歯が立たなかった。今一度お手合わせもお願いしたいところですが。」


「いや、桂さん。それは少々まずいだろ。たった今大先生にケンカを売って来たんじゃ。その後道場に立ったりしたら、アンタたちにも迷惑がかかる。」


 桂は平気な様子だった。なあに大先生は最近道場の方には顔も出しませんよ、などと言うばかり。

 そこをどうにか説得し、皆と会う事で納得させると2人は門弟たちの宿舎へ向かう。


 宿舎は雑魚寝の大広間で、個室は師範や師範代が使うものしかない。

 大部屋には門弟たちが車座で座っており、桂と弥之助が入ってくると喝采が湧き起った。


「弥助先生!是非にも宇野金太郎との一戦をお聞かせくだされ!」

「先生!日の本最強を完膚なきまでに破ったという、先生の技をご披露下され!」


 誰が先生だ、弥助は以前と違う道場の雰囲気に飲まれてしまう。


 とにかく何だか凄い人気だ。弥助がこれほどまでに注目されたのは、今回が初めてのことだった。

 強い強いとは言われていたが、対外試合が無かったのでどれほど強いのか知るすべが無かったのだ。


 少々戸惑っていた弥助だが、余りに無邪気に言い寄ってくる後輩たちが可愛く思えてつい語り始めた。

 面を3本上段から連取、4本目は先方から辞退という内容に、場から驚愕のどよめきが上がる。


「ス....スゲエ、凄すぎます!弥助先生!」

「是非この場で!再現してください!先生!」

「歓之助先生...姑息すぎてヤバいっす!惚れました!」


 もはや弥助もそっちのけで大いに盛り上がる後輩たち。

 そんな彼らをニコニコ見つめていた桂は、ふと弥助に話しかける。


「弥助さん、時に今夜は何処に?宿の当ては有りますか?」

「いや~、まあこれから探そうと。」


 金は十分持っているし、宿ならどうとでもなるだろうと弥助は余裕で構えていた。


「それならば私が藩邸に泊まれるよう手配いたしますが、如何でしょう?」


 桂が爽やかに提案する。

 そんな縁から、弥助は百姓の身で『雄藩』長州藩の江戸屋敷に部屋を与えられる事になった。


 桂が何故そこまで弥助に肩入れするのか、本人には良く分からなかったが。 

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