第二十一話 魔法の勉強
夕食を終えるまでは澱んでいた彼の気分も、ラニが魔法のことを口にするだけで簡単に上向いた。
こういうところが彼のいいところなのだろうとラニは思うと同時に、こういうところで彼女のような強気な少女に負けるのだろうとも思った。年頃の彼のためにこれを言った方がいいのか言わない方がいいのかわからず、結局口にはしなかった。ラニとしては、強くあってほしいとは願っているわけではなかったからだ。
新しくロウソクを付け替えたことで幾分か明るくなった部屋の、ささくれだった机の上にラニは分厚い本を一冊置いた。
明るさの十分でない中では黒に見えるような深緑色の布の装丁に、かすれてほとんど輝きを失った金色の刺繍が施された古い本であった。表紙に描かれているのは幾何学模様と、読むことができない文字のような記号の羅列。
この大陸に文字を持った言語は数えるほどしかないが、カイノはその文字を見たこともなかった。
重量を持った本は、その色と小口の黄ばみがさらに物質的重さを増すように感じられる。本というもの自体が高価であることを知っていたカイノは、布で装丁されて金色の装飾がついた本を目の前にし、その中身よりも、価値の方に考えが向いてしまう。
実際にそれほどに高価な本であった。
カイノは萎縮して手を机の下に収めてしまった。
「そんなに緊張しなくてもいい」
ラニは小さくなったカイノに笑いかける。
「で、でもこれ、絶対高い本だろ」
緊張でうわずった声を聞いて、ラニは笑みを零す。
「私はもう読まないから。燃えても構わないよ」
「いやいや、売ったら金になるだろ」
「どうかな。まあ確かに価値はあるかな」
ラニはその本自体を金銭的価値で見たことがなかったから、すぐにどれほどの硬貨と交換でいるのかがわからなかった。しかしくだらない日記に銀貨一〇枚程度を支払った記憶から、それなりにはなるのか、と思い至る。
「これは、魔法の定義、概念、基礎について書かれた本。安心して、中身は読める文字で書かれてる」
「これを、毎日少しずつ読んでいくこと。よくまとまっているから、いい勉強になると思う」
静かに聞いているカイノから、ラニは退屈そうな気配を感じとった。
「読むだけかって思った?」
カイノは小さく頷いた。
「魔法は、そういうものだよ。小さなことの積み重ね。でも安心して、他にもある」
「え、何があるのか?」
露骨に明るくなった声色は、すぐにまた元に戻ることになった。
「今までいくつかルールを決めてたね」
「ああ、朝起きて夜寝るってやつだろ?」
「それを全部やらないこと」
「どういうこと? 朝起きない、夜寝ない、ってことか?」
「簡単に言えばそう」
「それだけ?」
「それだけ」
そして彼の声色は静まる。
「なーんだ、もっとすごいものかと思ってた」
「残念だったね」
「こう、見たこともないような道具を使うとか。あ、杖、魔女とかって杖使うイメージあるけど、杖ないの?」
「ないよ。それはただ年老いたから杖をついてただけだと思う」
そう言ってしまって、カイノはつまらなそうな顔をした。
しかし彼は、ラニが課した訓練に忠実に生活を送った。
その夜は、眠い目をこすりながら満月が沈む頃まで本を読み、太陽が真ん中に来る頃に起きて、食欲に従うままに食事をとった。
しかし、その性格のためか、人と関わりを持つことは辞めなかった。日中はほとんど街に出て街の人と交流を深め、夜は酒場で男たちに混ざって騒いでいた。そしてラニもそれは止めなかった。彼を完全な魔女にするつもりはないからだ。
いつの間にか、街中行き交う人と挨拶を交わすようになった彼を見て、ラニは自分の知らない魔法を使っているのではないか、とさえ疑ってしまうほどだった。
魔法を学び始めて二日後に、例の行商人がラニの元を訪れてライザーノの方へ出発する予定だが来るか、と尋ねたが、ラニはそれを断った。
まだこの街で調べることもあったし、楽しそうに交流する彼からその楽しみを奪うことを忍びないと思ったからだ。
そうか、それじゃあ楽しんでねえ。肺には気をつけて。またどこかで、ライザーノででも見かけたときは一声かけてねえ。と、語尾を引いて彼は馬を駆って街を後にした。
あらすじ
教会に足繁く通うラニは、そこで見知った顔に出会う。
次回更新タイトル
第二十二話 教会と少女




