第九話 そして動き出す1
「それじゃあ、任せちまっていいかい?」
「ポンさんに任せられるの?」
「そういうことを言ってるんじゃあない」
三日目の朝。その日は珍しく宿に起こされた。そして、適当な身支度を済ませてポンさんのところに向かう。ポンさんのところの大欅は、山に駆け上がる風に赤茶色に色づいた葉を潜らせている。
ラニがたどり着いたとき、ちょうどカイノが店先に出ていて、両手いっぱいに洗濯物を抱えていた。随分早く使われるようになったんだね、と言っては見たものの所在なさげに頷くだけのカイノ。まるで昔の自分でも見ているみたいだ、とラニは思った。
「正直な、俺は不安だ」
「奇遇だ。私も不安」
そんなんでどうする、と肩をおとすポンさんに、変われるものなら変わって欲しいよ、と吐き出すように呟いた。
「あの子のためにも」
「あの子のためになるのは、お前さんといることだろ?」
「私は、魔女としてしか生きてないから」
「あの子も魔女だ、なんの問題がある」
だから問題だ、といつもみたいに一息で言い切るような気分にはなれなくて驚いた。それが、ラニにどれほどの出来事であるかを再認識させる。
「私この三日で考えたよ。魔女のこと」
相槌以外の言葉がラニの口から発されたことに、ポンは目を見開く。
ポンはこれまでラニと関わってきた数十年の間で初めて、彼女の中に人間らしさを垣間見た。そしてそれはかすかに、彼の中の不安を弱めていく。
「やっぱり、魔女は大変だ。幸せな魔女を私は見たことがない」
ほお、とポンは興味深そうに瞬きをする。
「私は両親が幸せだと言っているのを聞いたことがなかった。多くの魔女を知っているわけじゃないけど、みんな何かに困りながら生きてる。幸せを見つけても、あまりに長い寿命はそれを簡単に褪せさせる。人間が感じるような幸せは、魔女を幸せにしない」
「じゃあ、おまえさんは幸せじゃないのかい?」
切れ長の瞼の奥、子犬のようなつぶらな瞳が真っ直ぐラニの芯を捉える。
「幸せ。それは、人としての幸せ? 魔女としての幸せ?」
ポンは、笑った。まるで雷を世界の終わりだと泣き叫ぶ子供を見るような目で。そして気が済むまで笑ってから、ラニに尋ねた。
「なんの意味がある、そんな質問に」
「意味? だって幸せの定義は魔女と人じゃ違う」
「じゃあ、カイノとお前は同じなのか?」
おな、とそこまで言って言葉が詰まった。
同じ血を持つ魔女は、同じ幸せを持つのか。いや、私と、あの日私の手の中で息絶えた母は、同じ幸せを感じただろうか。あのときの幸せそうな母の気持ちを、私は理解することができているだろうか。カイノの幸せを私はわかるだろうか。私の幸せをカイノはわかるだろうか。
「魔女って、思いの外バカなんだな」
「魔女は賢さの象徴じゃない」
「俺より随分と歳食ってるじゃねえか。きっと、そんなんだから死ねないんだ」
嘲笑うポンに、数十年と抱いていない怒りに似たものが込み上げてきたが、それが面白くてラニは笑ってしまった。きっと魔法を使うべきなのは今の方だが、ポンの言うことの方がうんと正しかった。
「でもね」
ラニは口を開いた。
「何が幸せかはわからないかも知れないけれど、何が不幸かはわかる、はず」
「はず?」
「ポンさんのせいで自信がちょっとなくなっただけ。夕方には取り返す」
「じゃあ俺は、魔女様に勝ったってわけだ。お袋にいい土産ができたよ」
好きにしたらいい。とラニは言った。ここでどんなことを言っても負け惜しみにしか聞こえないことが悔しかった。




