199 初恋は叶わないもの
オルタンシアが一人で鏡と向かい合っている頃、ジェラールは父の執務室を訪れていた。
なんてことはない、近況報告だ。
いつものように話を終え部屋を出ようとしたジェラールは、父に呼び止められた。
「そういえば、また君に見合いの話が来ているよ」
父は愉快そうな笑みを浮かべている。
きっと彼は最初から、ジェラールがどう答えるかなどわかり切っているのだろう。
「縁談を受けるつもりはありません。既に心に決めた相手がいるので」
ジェラールはよどみなくそう告げた。
今までも縁談など掃いて捨てるほど来ていた。
だが一度たりとも、ジェラールが縁談を受けようと思ったことはない。
愛のない結婚をしても、母のように不幸な人間を生み出すだけだとわかっているからだ。
……いや、かつてはそう思っていた。
だが今はわかっている。
……この世界にたった一人、その相手以外を伴侶に迎えるつもりはないのだ。
たとえ、その愛が実を結ばなかったとしても。
ジェラールの頑なな態度に父は怒るでも呆れるでもなく、むしろ嬉しそうに笑みを深める。
「……正直、私と君はあまり似ていないと思っていた。けれども、案外好みの女性のタイプは似ているのかもしれないね」
ジェラールにはその言葉の真意がはっきりとわかった。
だが、誤魔化したり隠し立てをするつもりはない。
父と視線を合わせ、口を開く。
「かもしれませんね」
あっさりと肯定して見せたジェラールの言葉に、父は目を細めて笑う。
「ベルナデットは本当に素晴らしい女性だった。彼女と出会って、初めて世界が色づき始めたような気がしたよ。彼女と出会えたことは私の人生の中で最も幸運な出来事の一つだ」
「酒場の歌姫ですか」
父が情熱的な愛を捧げていたのが自身の母ではなく、別の女性だということをジェラールは知っている。
別に責めているつもりはない。
政略結婚と恋愛が別物なのは理解している。むしろ家のために面倒な結婚をした父に対して尊敬な念すら抱いているほどだ。
ジェラールは父がそれほどまでに入れ込んでいた女性と会ったことはない。
使用人の中には当初、オルタンシアのことを「娼婦の娘」と陰口を叩き蔑んでいる者もいた。
それほどまでに評判がよくないのだ。オルタンシアの母親は。
だが……父がここまで言うのなら、魅力的な女性なのは間違いないのだろう。
「……君やオルタンシアには私のせいで随分と迷惑をかけてしまった。そのことについては本当にすまないと思っている」
「いえ、構いません」
父の謝罪に、ジェラールは即座にそう返した。
確かに、父が酒場の歌姫と出会うことがなかったらジェラールの幼少期はもう少しマシなものだったのかもしれない。
だがその場合、ジェラールとオルタンシアが出会うことはなかっただろう。
……そんな人生なんてクソ食らえだ。
「ジェラール、君は君の思うように動けばいい。面倒な段取りはできる限りこちらで進めていくつもりだ」
父は心得たようにそう口にした。
やはり、彼には分るのだろう。
……倫理を超えて、たった一人に惹かれてやまない気持ちが。
「……ありがとうございます」
静かに礼を言うと、ジェラールは父の下を辞した。
扉が閉まる際に、背後から穏やかな父の声が耳に届く。
「我らがお姫様を頼んだよ、ジェラール」
◇◇◇
ジェラールが口にしていた夜会が近づいてきた頃、約束通り彼が手配した衣装がオルタンシアの下にやって来た。
「わぁ! 見てくださいお嬢様!! なんて美しいんでしょう……」
ドレスを一目見たパメラが、ほぅ……と感嘆のため息を漏らす。
オルタンシアも驚きのあまり声が出ないほどだった。
それほどまでに、美しく存在感を放つドレスがやって来てしまったのだ。
澄み切った冬の空を思わせるアイスブルーの生地に、繊細な銀糸できめ細やかな刺繍が織り込まれている。
あちこちにスパンコールやクリスタルビーズがちりばめられ、光を受けきらめいている。
その輝きは、オルタンシアの脳裏に領地で見たダイヤモンドダストを思い起こさせた。
自然の美しさを閉じ込めたような、人の手で精巧に作り上げられた芸術品のような……相反する美しさを秘めた傑作だった。
もしもこれを着るのが自分でなければ、オルタンシアもパメラのように素直に賞賛を贈ることができただろう。
(こっ、これを私が……!?)
どう考えても、ドレスに対してオルタンシア本体がお粗末すぎる。
自分が身に纏うことでこのドレスの魅力を殺してしまうのではないかと恐ろしく思えるほどだ。
「大丈夫かなぁ……」
普段身に着けるものよりも幾分か大人びたシルエットを前に、オルタンシアは小さくため息を零してしまう。
ジェラールとしては自分の恋人に会わせる際に、少しでもオルタンシアをまともな状態にしておきたかったのだろう。
(ちょっと私にはレベルが高いですお兄様!)
それほどまでに兄は今度の夜会に気合を入れているのだろう。
そう思うと、なおさら気が重くなってしまう。
「私には着こなせそうにないね……」
「そんなことありません、お嬢様! なにしろジェラール様がお嬢様のために仕立てられたのですから!」
傍らのパメラはいつになくやる気に満ち溢れている。
確かに、このドレスに文句をつけるのは用意してくれたジェラールに申し訳がない。
(どうせ今度の夜会で私は脇役なんだし、そう気負わなくても大丈夫か)
主役はジェラールとその恋人なのだ。
オルタンシアはせいぜいみすぼらしくない格好をしていればいいのだろう。
『んにゃ! キラキラなんだぞ!!』
「あー、チロル! 爪を立てちゃ駄目だよ!!」
チロルはキラキラと瞬くクリスタルビーズが気になるのか、目を輝かせて前足を伸ばしている。
その鋭い爪で繊細な生地が引き裂かれては大変だ。
オルタンシアは慌ててチロルを抱っこしてドレスから遠ざけた。
『むぅ』
「ほら、向こうのガラス玉で遊ぼう?」
なんとかチロルを宥めていると、その様子を見ていたパメラがくすりと笑う。
「大丈夫ですお嬢様。このドレスにぴったりなヘアセットとお化粧を勉強しておきますから!」
「ふふ、ありがとうパメラ」
兄も、パメラも、これだけ張り切っているのだ。
気乗りがしない、なんていう理由でオルタンシア一人が沈み込んでいるわけにはいかない。
(せっかくお兄様が大事な人を紹介してくださるんだもの。私にできることは全部やって祝福しなきゃ!)
きっと今度の夜会で、ある程度は気持ちに区切りをつけられるはずだ。
芽生えてしまった恋心を……完全に殺すことができるかどうかはわからないが。
(初恋は叶わないものって、本当なんだ……)
いつか本で読んだ一節を思い出し、オルタンシアは再びため息を零すのだった。




