194 何だって叶えてやる
「わぁ……!」
温室に足を踏み入れた途端、オルタンシアは感嘆の声を上げてしまった。
ヴェリテ公爵邸に限らず貴族の屋敷に温室が備え付けられているのは珍しくないが、ここは規模が違った。
ガラス張りの高い天井から燦燦と光が降り注ぎ、あたりの植物を美しく照らし出している。
王立植物園の目玉建造物というだけあって、その絢爛さはまるで芸術品のようだった。
目を輝かせてゆっくりとあたりを見回していたオルタンシアは、不意に視線を感じそちらへ振り向く。
「へ?」
見れば、傍らのジェラールがじっとオルタンシアを凝視していたのだ。
ただ単に見ていたというには、あまりにその視線は強かった。
まるで、その一挙一動を見逃さないとでもいうように。
「お、お兄様……? 何か……?」
知らないうちに何かやらかしてしまったのだろうか。
オルタンシアはびくびくしながらそう問いかけたが、ジェラールはオルタンシアから視線を外さないままに答えた。
「別に何も」
(絶っっっ対にそんなことないよね!?)
何もないというのならなぜ穴が開くほどこちらを見ているのだろうが。
オルタンシアがぎこちなく視線を外してからも、ジェラールの視線がちくちくと突き刺さるのを感じずにはいられなかった。
「す、すごく綺麗な場所ですね!」
沈黙がつらくて、オルタンシアはわざと明るい声を出す。
「あぁ、そうだな」
幸いなことに、ジェラールは会話に応えてくれるようだった。
「私、ここに来たのは初めてなんです。だから、その、あの……驚きました」
ジェラールは何も言わない。二人の間に嫌な沈黙が落ちる。
(うわぁぁ、場を繋ぐための会話が逆効果に!)
あまりの会話の下手さに、オルタンシアは自分で自分が嫌になりそうだった。
ジェラールも気を悪くしたかもしれない。
オルタンシアが反射的にちらりとジェラールの様子を伺うと――。
「…………そうか」
(あれ、ちょっと嬉しそう?)
きっと他人が見てもその変化に気づくことはないだろう。
だがずっとジェラールを見続けてきたオルタンシアにはわかる。
気を悪くするかと思いきや、何故かジェラールの機嫌は上を向いたようだ。
彼の些細な変化から、身に纏う空気から、そう伝わってくるのだ。
(やっぱりお兄様は難しい……)
あらためてオルタンシアはそう思い知った。
魔神の作り出した世界のジェラールはもう少しわかりやすかったような気がするのだが、やはり本物は別格なのかもしれない。
少しだけ気が楽になって、オルタンシアは温室の中の植物へと意識を移す。
やはり王立植物園というだけあって、他では見られないような希少で美しい植物が集められていた。
「あっ、あそこの花は図鑑で見たことがあります! 南国から伝わった珍しい花だとか……」
図鑑でしか目にしたことのない花などもあり、オルタンシアの心は弾む。
「すごく綺麗な色ですね……」
「わかった。公爵邸にも取り寄せる」
「えっ!?」
ジェラールの口から出てきた唐突な言葉に、オルタンシアは幼い頃の彼とのやり取りを思い出す。
ジェラールの言葉は決して冗談なのではない。
実際に彼は、オルタンシアの何気なく口にした一言でとてつもなく希少なシャングリラの花の花壇を公爵邸の庭に作り出してしまったのだから。
つまり、ここでオルタンシアが制止しなければ、また手間とお金をかけた贅沢な高級花壇が爆誕してしまうかもしれない……!
「い、いえ! 大丈夫です! もったいないです!」
オルタンシアは慌ててそう弁解する。
ジェラールは有言実行の男だ。
意志を固めたなら今日にでも着手しかねないのだ。
「何がもったいない」
「えっと、その……だって……」
ジェラールに問いかけられ、オルタンシアは言葉に詰まってしまう。
ヴェリテ公爵家としては、懐が痛むほどの出費ではないのだろう。
だがそれでも、自身の何気ない一言で庶民からすれば目が飛び出るほどのお金が使われるのはオルタンシアの精神によくないのだ。
だから――。
「公爵邸にこのお花を植えたら、もうこうやってお兄様とここにくる機会がなくなっちゃうから……もったいない、です」
自分でも何を言おうとしているのかわからないままに口を開き、気づけばオルタンシアはそんなことを口にしていた。
やってしまった、と気づいた時には後の祭りだ。
(わぁぁぁ! お兄様を止めるためとはいえ何を言ってるの! 私!!)
本当にどうしてこんな恥ずかしいことを言ってしまったのだろう。
……もしかしたら、自分でも見ないふりをしていた心の奥底の本音が漏れてしまったのだろうか。
(こんなこと言ったら、お兄様も変に思うよ……)
幼い頃ならまだしも、今のオルタンシアは社交界デビューも果たした一人前の女性だ。
兄妹とはいえいつまでもベタベタしていては、ジェラールも鬱陶しく思うだろう。
ましてや、オルタンシアはジェラールに密かな恋心を抱いているのだ。
それがジェラールに知られてしまったらと思うと……恐ろしくてたまらなかった。
だが、俯いて震えるオルタンシアを待っていたのは、存外優しげなジェラールの声だった。
「…………そうか」
いつになく柔らかな響きを帯びたその声に、オルタンシアは反射的に顔を上げる。
相も変わらず、ジェラールはじっとこちらを見ていた。
だがその目に浮かぶのは……冷たい光ではなかったのだ。
(あれ、お兄様……嬉しそう……?)
怒ったり呆れたりしているのではない。
ジェラールは何故だか、嬉しそうな顔をしていたのだ。
「またこの花が見たくなったらいつでも俺に言え。毎日だって連れてきてやる」
「そ、それはお忙しいお兄様には難しいのでは……」
「時間を作るから問題ない。真夜中だろうが開けさせてやる」
(職権乱用だー!)
そう思わないでもなかったが、それでもオルタンシアの胸の底から湧き上がってくるのは確かな歓喜だった。
(お兄様、相変わらず私に甘いなぁ)
もちろんそれが、「妹」への特別な態度だとわかっている。
ジェラールにとってのオルタンシアはあくまで家族であり、妹なのだ。
……オルタンシアが心の奥底に押し隠そうとしている恋心が成就する日は来ない。
だがそれでも……彼がこうして自身を特別扱いしてくれるのが嬉しくてたまらないのだ。
「ふふ、ありがとうございます。お兄様」
くすりと笑うと、ジェラールはぽん、とオルタンシアの頭の上に手のひらを乗せる。
「……覚えておけ。お前が望むなら、俺は何だって叶えてやる」
その言葉に、真摯な響きに、オルタンシアの鼓動が大きく音を立てた。
それが彼の「妹」への、最大限の思いやりから出た言葉だということはわかっている。
だが、そんなことを言われてしまったら――。
(私が、お兄様のことが「好き」って言ったらどうするんですか……?)
きっと彼は、幼いころから見守っていた妹が自分に思いを寄せているなどとは考えもしないのだろう。
だからこそ、魔神が作り出した世界でのジェラールの行動も「ありえないこと」と割り切ることができたのだ。
……当然のことだと、仕方のないことだとわかってはいても。
なかなか割り切ることはできなかった。
彼と自分の間の意識の差異を、まざまざと見せつけられたような気になってしまう。
オルタンシアはそんな思いを悟られないように、精一杯の笑みを浮かべてみせた。
そんなオルタンシアをじっと見つめ、ジェラールはゆっくりと口を開く。
「今から特別温室に入る」
「えっ!? 特別温室って一般公開はされてないはずじゃ――」
特別温室はこの巨大温室の中に位置する研究機関だ。
珍しい植物が集められたこの場所の中でも、更に希少価値の高いものばかりが集められたその名の通り特別な場所なのだ。
入れるのは研究に関わる者か、ある程度地位のある者のみ。
確かにジェラールならば入れたとしてもおかしくはないのだが――。
「行くぞ」
そう言って、ジェラールはごく自然にオルタンシアの手を取った。
突然のエスコートに、オルタンシアは心臓が口から飛び出そうになってしまう。
(心臓に悪いですお兄様……!)
もしかしたら、最初からこの特別温室に入ることが彼の目的だったのかもしれない。
なぜオルタンシアを一緒に連れてきてくれたのかはよくわからないが……。
(女性同伴じゃないと入れないとか? いや、そんなわけないよね……)
オルタンシアは少しぎこちない足取りで、ジェラールと共に特別温室へと向かう。




