190 戻りたいとは思わないさ
「そうだね、どこから話そうか」
父はパメラが入れたお茶を口にすると、まるで過去を懐かしむようにどこかへ視線を投げかけた。
「まず言っておきたいのは、君の母親……ベルナデットと恋人同士だったというのは本当だ。もちろん、君が生まれる前の話だが」
父の口からその言葉を聞けて、オルタンシアはほっとした。
(やっぱり、ここでは私が運命を変えたことはなかったことになってるんだ)
父を死の運命から救うための、正しい行動だと思っていた。
だが父の口から母の名前を聞くと……不思議と運命が変わらなくてよかったと、そう思ってしまうのだ。
「彼女との出会いについては以前話したね。私はトラブルに巻き込まれていた君の母親……ベルナデットを助け、そこから交流が始まった。……本当に楽しかったよ」
父はオルタンシアを見つめ、幸せそうに笑う。
その顔からは、後悔の念は微塵も感じられなかった。
「彼女は私にいろいろなものをくれた。物理的なものではなく、もっと大切なものをね。私たちは恋人であり、気の合う友人でもあった。私には妻がいたし、ベルナデットには別の恋人がいることもあった。でもそれでよかったんだ」
……オルタンシアにはよくわからない大人の世界だ。
だが、父も母もいろいろと納得したうえで付き合っていたのだろう。
「私は彼女を心から愛していた。……いや、今も変わらず愛しているよ」
その言葉にオルタンシアの胸はいっぱいになる。
……嬉しかった。
オルタンシアの大好きな母が、今も父の心の中で大きな存在となっていることが。
「事情があって私は酒場に行けなくなり、ベルナデットとも疎遠になってしまった。……忙しかったというのは言い訳だね。あっという間に数年が経ってしまった」
そこで初めて、父は少しだけ後悔を滲ませた声で語る。
「……風の噂でベルナデットが亡くなったことを知った時は、もっと何かできたんじゃないかと何度も自分に問いかけたよ。だからこそ……彼女が遺した君に会いたかったんだ」
……元恋人の娘というだけで、血も繋がっていない。会ったこともないのに。
それでも父は、オルタンシアを探して迎えに来てくれたのだ。
そう考えると、胸の奥から熱いものがこみ上げた。
「初めて君を見た時にすぐにわかったよ。ベルナデットが大切に育てた娘だとね」
「でも、私とママってあまり似ていないんじゃ……」
「いいや、よく似ているよ」
容姿はまだしも、明るく陽気な母と内気で湿っぽいオルタンシアは性格や雰囲気があまり似ていない。
そう思っていたのだが、父は軽く首を横に振って否定した。
「君とベルナデットはよく似ている。少なくとも、私はそう思うよ」
父はまっすぐにオルタンシアを見つめてそう言った。
「ベルナデットも君もその場にいるだけで周りを幸せにしてくれるんだ。現に私は愛するベルナデットの娘である君のことが可愛くてたまらない。血の繋がりなんて関係ない。君がここに来てくれた時から、誰が何と言おうと私たちは家族なんだ」
父の言葉には、ゆるぎない思いが感じられた。
口先だけでオルタンシアを煙に巻こうとしているわけではない。
心からそう思ってくれていると、はっきりわかったのだ。
(お父様は、正直に話してくださった……)
オルタンシアはいつの間にか浮かんでいた涙を拭い、父に向って微笑んでみせた。
……大丈夫。彼ならば、きっと本当の想いを聞かせてくれるはずだ。
だからこそ、オルタンシアはもう一歩踏み込んだ問いを投げかけたのだ。
「お父様、もしも……過去に戻ってやり直せるとしたら」
運命を、変えられる分岐点があるとしたら。
「ママと出会ったことで、お父様が失った物もあるはずです。それをやり直せるとしたら、お父様は過去に戻ってやり直しますか」
仲睦まじい公爵夫妻。血の繋がった本当の娘……。
あれは魔神が見せた都合のよい夢だ。
だが父と母が出会わなければ、あんな未来があったかもしれないのも確かなのだ。
聡い父なら、その可能性を考えなかったわけがないだろう。
オルタンシアの問いかけに、父は愉快そうに笑う。
「いいや、やり直さないよ」
思った以上の即答に、オルタンシアはぱちくりと目を瞬かせる。
父がその答えを出してくれたのは嬉しいのだが、まさかここまで悩まないとは思っていなかった。
「すべて自分が決めたことだからね。後悔はしない」
「それが、不幸な結末を招くとしてもですか?」
「あぁ。それに……たとえどんな結末が待っていたとしても、君とベルナデットからはそれ以上の幸福を貰っていると断言できる。だから過去に戻りたいとは思わないさ」




