186 あなたのいる場所が
「わぁ……!」
「帰り道、か」
かつて精霊界から次元の狭間へ迷い込んだ時と同じだ。
オルタンシアが心から帰りたいと願ったことで、道が出現したのだろう。
「行くぞ」
オルタンシアを抱き上げたまま、ジェラールは現れた道へ足を踏み出した。
だがその途端、更に驚くべきことが起こった。
「あれ、向こうから何か来る……?」
道のはるか向こうから、何かがこちらへと近づいてくるのが見える。
先ほど出会ったリュシアンとは違う。
もっとずっと……小さいのだ。
豆粒のようなその「何か」はぐんぐんこちらへ近づいてくる。
いったい何だろうと目を凝らして……その正体が分かった時、オルタンシアは思わず声を上げてしまった。
「チロル!?」
ずっと会いたかった、オルタンシアの相棒の精霊がそこにはいたのだ。
慌ててジェラールの腕から降り、オルタンシアは駆け出す。
「チロル!」
『シア!!』
間違いない、必死にこちらに駆けてくるのはチロルだ。
オルタンシアも足をもつれさせながら駆け寄り、勢いよく飛びついてきたチロルを両腕で抱きしめた。
「チロル、無事だったんだね……!」
『それはこっちのセリフだぞ! シア!!』
涙声のチロルにそう言われ、オルタンシアもぐす、と涙ぐんでしまう。
……ずっと探していた。
あの世界で他の猫をチロルと見間違えてしまうほど、ずっと会いたかったのだ。
近づいてきたジェラールが、オルタンシアの腕の中のチロルを見下ろし、ぽつりと呟く。
「そういえばその猫も姿が見えなかったな」
『僕は猫じゃない!』
懐かしいやりとりに、オルタンシアはくすりと笑う。
「先に公爵邸に戻っていたわけじゃないんだね……。今までチロルはどこにいたの?」
『シアのことを探していたんだぞ! あの酒場から出てシアが倒れて、それからすぐにここに落とされたんだ! シアもどこかで迷子になってるんじゃないかってずっとずっと探してたんだぞ!!』
オルタンシアは慌てて腕の中のチロルの様子を確認した。
幸いなことに、傷ついたり疲弊している様子はない。
ここ次元の狭間では時間の流れが曖昧だ。
おそらくチロルがここに迷い込んでから、さほど時間は経っていないのだろう。
「よかった、本当によかった……!」
あらためて、オルタンシアはチロルをぎゅっと抱きしめる。
(私が帰りたいって思ったから、チロルにも会えたのかな……)
きっとそうだ。
オルタンシアが育ったあの公爵邸に、チロルはなくてはならない存在なのだから。
……あの魔神によって作られた世界の公爵邸は幸せな場所だったのかもしれない。
でも、オルタンシアが帰るべきなのはあそこではない。
(お兄様がいて、お父様がいて、チロルも、パメラもアナベルもみんながいるあの場所こそが、私の居場所なんだ)
随分と遠回りしてしまったような気がするが、オルタンシアはやっとそう受け入れることができた。
「……さっさと帰るぞ」
ぽん、とジェラールの優しいてのひらがオルタンシアの頭に触れた。
「はい、お兄様」
傍らの義兄に微笑みかけ、オルタンシアは歩き出す。
「あっ、お兄様! 私ちゃんと自分の足で歩けますからね?」
「…………わかった」
オルタンシアの自立歩行宣言に、ジェラールは何故か不服そうにそう答える。
(だって私はお兄様の「妹」だから。これからもお兄様の傍にいるのは許してもらえたけど、ほどほどの距離を保っておかなきゃね)
そうでもしなければ、うっかり彼への恋心が漏れ出てしまうかもしれない。
そう自分を律し、オルタンシアは背筋を伸ばして歩き出す。
『僕だって歩けるぞ!』
オルタンシアの腕から飛び出したチロルが、タタっと駆けながら得意げに振り返った。
「ふふ、チロルったら」
張り合おうとするチロルの態度が微笑ましくて、オルタンシアはふふっと笑う。
そのまま歩いていると、すぐに変化は訪れた。
『あれは……』
「公爵邸の扉だ!」
道の先にそびえ立っているのは、間違いなくヴェリテ公爵邸の扉だ。
いよいよ、帰れるのだ。
(懐かしいな……)
感慨深くなって、オルタンシアは思わず足を止めてしまう。
するとそんなオルタンシアをどう思ったのか、ジェラールがそっとオルタンシアの手を取った。
「お兄様……?」
ジェラールは何も言わない。
ただ、優しくオルタンシアの手を包み込んでくれている。
例え言葉がなくとも、そのぬくもりだけでオルタンシアが彼の言いたいことが分かった。
(私の居場所はここだから、迷うなってことだよね)
だから、手を引いてくれようとしているのだ。
「大丈夫です、お兄様」
オルタンシアはそっと、ジェラールの手を握り返した。
(あなたのいる場所が、私の帰る場所だから)
だから今は、迷わない。
「一緒に帰りましょう、私たちの家へ」
「……あぁ」
オルタンシアとジェラールは同時に扉の取っ手に手をかける。
そして、ゆっくりと扉を開いた。




