185 これからも彼の傍にいられるのなら
「え…………?」
驚いて顔を上げると、まっすぐにこちらを見つめていたジェラールと目が合う。
彼の整った顔に浮かんでいるのは、オルタンシアが予想していたような嫌悪や不快感ではなかった。
オルタンシアがぞくりとするほどの、どこか強い熱を秘めたような強い視線だったのだ。
「あの世界のことはすべてまやかしだと言っただろう。そんなものにいちいち振り回されるなど滑稽だ」
ジェラールの達観した言葉に、オルタンシアははっとする。
彼は割り切っているのだ。
あの世界で起こった出来事は、すべて魔神の策略であると。
そんなものにいつまでも心を振り回されているのは愚かであると。
「……実際にあの世界に入り込んでいたお前がすぐに切り替えられないのはわかる。だが、考えろ」
ジェラールの強い視線に見据えられると、まるで縫い留められたように体が動かなくなってしまう。
そんなオルタンシアに、ジェラールはゆっくりと問いかけた。
「お前が帰りたいのはあいつの下か、それとも俺のところか」
その言葉で、心の中でくすぶっていたオルタンシアの迷いが露わになっていく。
(私、私が帰りたいのは……)
ずっと……運命を変えて父を救うのだと決めた時から、迷ってはいたのだ。
……本当にこれでいいのかと。
どうするのが最善なのか、どうすれば父や兄を幸せにすることができるのか、オルタンシアはずっと悩んでいた。
でも、今大事なのは……。
(私が、どうしたいのかということ……)
魔神が作ったあのまやかしの世界は、確かにヴェリテ公爵家の者たちが幸せに生きられる世界だったのかもしれない。
だがあそこに、オルタンシアの居場所はなかった。
……これが正しいのだと、自分に言い聞かせて。
日々こみ上げてくる不安や後悔を、見ないふりをして。
オルタンシアは心を押し殺していた。
でも、本当はずっと……。
(帰りたかった。私が育った、お父様やお兄様……皆のいるあの場所へ)
もしかしたらその思いを捨てきれていなかったから、本物のジェラールの呼び声が聞こえたのかもしれない。
……あの世界のジェラールのことが好きだ。
彼はオルタンシアに初めての感情を気づかせてくれた。
だがもし、彼が「ジェラール」ではなく全く別の人間で、同じように出会ったとしたら……。
(きっと私は、彼をああいう形で好きになることはなかった)
あのジェラールが言った通り、オルタンシアは彼を通して本物のジェラールを見ていたのだ。
孤独だったオルタンシアに救いの手を差し伸べてくれたジェラールに惹かれた。
でも、オルタンシアが本当に会いたかったのは……。
(今目の前にいる、私のお兄様の方だった……)
はっきりと、そう気づいてしまった。
「私が帰りたいのは……お兄様、あなたのところです」
その思いのままに、オルタンシアはそう告げる。
すると、ジェラールの表情がふっと和らいだのがわかった。
「だったら迷うな。お前が帰るのは俺のところだ。それが当然の摂理だと思え」
「はい……」
ジェラールの強引ともいえる言葉に、オルタンシアはそっと頷く。
今はそうやって、言葉でもオルタンシアを繋ぎとめようとしてくれることが嬉しかった。
「これで心は決まったな。さっさと帰るぞ」
そう言うと、ジェラールはオルタンシアをひょい、と抱き上げる。
「お兄様! 私歩けますよ!?」
「知っている」
「じゃあどうして……」
戸惑うオルタンシアに、ジェラールは何か言おうと口を開く。
だが一度言葉を飲み込むように黙り込んだ後……彼はあらためてとんでもないことを言い出した。
「俺がそうしたいからだ」
その言葉に、胸が熱くなる。
(お兄様、私のこと嫌わないでいてくれた……)
あの世界であったことを告げることで、ジェラールとの関係が壊れてしまうのが、彼がオルタンシアを遠ざけるのではないかと怖かった。
だが、ジェラールは変わらなかった。
自分がしたいからそうする。
そんな単純な原理で、前と同じようにオルタンシアと接してくれた。
(お兄様にとって、私はちゃんと「妹」なんだ……)
その事実に大きな安堵と、一抹の寂しさを覚えながらも、オルタンシアはぎゅっとジェラールに抱き着いた。
(……ううん。家族でいられるのなら、それでいい)
多くは望まない。これからも彼の傍にいられるのなら。
だから……彼と一緒に、オルタンシアが育ったあの公爵邸へ帰ろう。
そう決意した途端、果てしなく続く雪原に一筋の道が現れた。




