180 そんな世界が、あったかもしれない
「お嬢様はまた些細なことでお悩みのようですね」
「些細なことって……私にとっては重要なことなんだよ?」
「ならば話し合うことです」
いつになく真面目な声色で、リュシアンはそう言った。
「いつまでの一人でぐるぐると考えていても、結局は同じところを堂々巡りしているだけ。その状況を打破するには、思い切って身近な相手と腹を割って話すことが重要です。……と以前読んだ心理学の本に書いてありましたよ」
「……リュシアンって、結構勉強熱心なんだね」
「それはもう、私は人間に興味津々ですから」
……やはり魔神の思考はよくわからない。
満面の笑みを浮かべるリュシアンに、オルタンシアはそう思わずにはいられなかった。
「さて、悩めるお嬢様に救いの手を一つ……」
オルタンシアの頭を撫でようとしたのか、リュシアンの手がこちらに伸ばされる。
だがその手がオルタンシアに触れる前に、ジェラールがものすごい力でリュシアンの手首を掴んで制止した。
「……触れるなというのが聞こえなかったのか?」
「ジェラール様、これが普通の人間であれば骨がボキボキに折れていますよ。もう少し手加減をなさるべきかと」
「必要ない。許可なくオルタンシアに触れるような者など全身の骨が折れてしまえばいい」
「……まったく、その執着がお嬢様にはあまり伝わっていないのが不思議でなりませんよ。やはりお二人に足りていないのは意思疎通です」
リュシアンは観念したように手を引くと、得意げに解説を始めた。
「今のお二人がここから出られない原因……それはおそらく、帰るべき場所を見失っているからからです」
「なんだと……?」
不服そうな声を出すジェラールに、リュシアンはにやにやと笑う。
「おや、心当たりがないのですか?」
「俺たちの帰る場所は一つしかない」
「……そう思っておられるのは、案外ジェラール様だけかもしれませんよ?」
リュシアンの意味深な言葉に、ジェラールは彼にしては珍しく言葉に詰まったようだった。
「ここでの道標となるのは、自分が行くべき場所、帰るべき場所へ向かうという強い想いです。気持ちが揺らいでいては、いつまでたってもどこへもたどり着けない。そういうものなのです」
「ぁ…………」
オルタンシアにも思い当たることがあった。
かつて精霊界の帰りにここ、次元の狭間に落ちた時は、「公爵家に、ジェラールに会いたい」と強く願ったら道が現れたのだった。
だが今それができないのは、リュシアンの言うとおりに気持ちが揺らいでいるから。
先ほどのジェラールの態度を見る限り、彼の心は決まっているのだろう。
……揺らいでいるのは、オルタンシアの方なのだ。
黙り込んだオルタンシアに、リュシアンは存外優しく告げる。
「お嬢様には思うところがあるようですね。このまま拗れ続けるのも面白そうですが、早期解決を願うのならばやはり話し合うことです」
「…………うん」
オルタンシアは素直に頷いた。
このままではどうにもならないと、オルタンシアもわかっていた。
「それでは私はこのあたりで失礼いたします。健闘をお祈りしますよ」
そう言って、リュシアンはオルタンシアとジェラールに背を向け立ち去ろうとする。
オルタンシアは慌ててその背に問いかけた。
「リュシアンはどこへ行くの?」
「さぁ? 再び力をたくわえるまでは悪だくみもできそうにないですからね。風の吹くまま気の向くまま、好きにさすらいますよ」
振り返ることなくひらひらと手を振りながら、彼は去っていった。
オルタンシアはちらりと傍らのジェラールを見上げる。
彼は確かに去り行くリュシアンの背を見ていたが、どこか心ここにあらずといった様子だった。
まるで、何か別のことに気を取られているように。
やがてリュシアンの姿見えなくなり、オルタンシアとジェラールは再び二人きりになってしまう。
再び訪れた気まずい沈黙を破ったのは、意外なことにジェラールの方だった。
「……座れ」
彼はそう言うと、自らの上着を脱いで地面に敷いた。
ここに降っているのは、本物の雪じゃない。
触っても冷たくないし、直接座っても特に問題はないはずだ。
だがそれでも、オルタンシアはジェラールの気遣いが嬉しかった。
そっと腰を下ろすと、ジェラールもすぐ隣に腰を下ろす。
……どうやらジェラールも、リュシアンが言っていた通り話し合うつもりがあるようだ。
(……そうだよね。ここから出られないのは私のせいなんだし)
心に迷いがあるのは自分でもわかっている。
だがオルタンシアは、それをどうしていいのかわからないのだ。
「……お前は」
不意に、ぽつりとジェラールが呟く。
「元の世界に帰りたくはないのか」
きっと、そう聞かれると思っていた。
今のジェラールの目的はここから出ることで、元の世界に帰れないのはオルタンシアのせいなのだから。
ここで誤魔化しても仕方がない。
オルタンシアは観念して、ぽつぽつと心の内を吐露する。
「帰りたくない、わけじゃないんです」
むしろ、あの世界にいた時はずっと帰りたいと思っていた。
叶うことなら帰りたい、皆が、ジェラールがいる公爵邸に。
だが果たして……オルタンシアにはそれが許されるのだろうか。
オルタンシアは魔神の作り出した世界で知ってしまった。
……オルタンシアの母であるベルナデットがヴェリテ公爵と出会わなければ、公爵家には平穏な幸せがあったことを。
ジェラールが心を凍らせることもなく、穏やかに成長できる未来があったことを。
たとえ父と血がつながっていなかったとしても、ベルナデットの娘であり偽りの公爵令嬢であるオルタンシアは公爵家を歪めた元凶といっても差し支えない。
そんなオルタンシアが、何事もなかったような顔をして公爵邸に帰ってもいいのだろうか。
知らないうちにまた父や兄の幸せを奪ってしまうのではないかと、怖いのだ。
「私のママとお父様が出会わなければ、公爵夫人が心を病むことはなかったのかもしれない。そうすれば、お兄様がつらい思いをすることもなかった。もしかしたら、私みたいな養女じゃなくて本物の公爵令嬢がいたかもしれない。……そんな世界が、あったかもしれない」
オルタンシアのいない、幸せなヴェリテ公爵家。
その可能性を知ってしまったからには、もう見ないふりはできなかった。
「お兄様が本来生きるべきは、そういう世界だったんです。そこで幸せになれたはずなのに」
温かな愛に包まれ、幸せな人生を生きることができたはずなのに。
……それを奪ってしまったのが、オルタンシアと母の存在だったのかもしれない。
時折言葉に詰まりながらも、オルタンシアはそう零した。
ジェラールはじっと黙って、オルタンシアの言葉を聞いていた。
あらかた話し終えた時、オルタンシアを待ち受けていたのは……ジェラールの深いため息だった。




