181 俺の幸せに必要なのは
「何を言うかと思えばそんなことか。くだらん」
ジェラールはオルタンシアの悩みをばっさりと一蹴した。
彼の態度があまりに極端なので、オルタンシアは慌てて言い縋る。
「く、くだらなくないですよ……! お兄様が今いろいろと苦労しているのだって、元をたどれば私とママが――」
「そんなことを考えてどうなる。ただの仮定の話だ」
散々悩み、苦悩したオルタンシアとは違い、ジェラールの態度は実にあっさりとしていた。
まるで、あったかもしれない幸せな人生には欠片も興味がないというように。
「父上と母上の間の諍いについては、お前が気にすることじゃない。どちらにも相応の非はある。今となってはどうでもいいことだ」
まるで他人事のように、ジェラールは淡々とそう口にする。
その口ぶりで、オルタンシアは薄々感づいてしまった。
(お兄様にとって公爵夫妻の間にあったことは、もう過去の話なんだ……)
彼は自身の生い立ちを、不遇な幼少期を恨んではいない。
既に過ぎたこととして、受け入れているのだ。
(なんて強い人なんだろう……)
当のジェラールは、己の過去を受け入れている。
だがオルタンシアは、彼のように割り切れなかった。
「それでも、過去を変えられるかもしれなかったら……?」
過去の過ちを、それによって起こった悲しい出来事をなかったことにし、幸せな人生を歩めるとしたら。
それでも、ジェラールの心は揺らがないのだろうか。
俯くオルタンシアの頭上に、ぽん、と優しくジェラールの手のひらが降ってくる。
その優しいぬくもりに、オルタンシアは思わず泣きそうになってしまった。
「……今回の件についてはたとえやり直せたとしても、俺は過去を変える気はない」
ジェラールははっきりとそう告げた。
少しの迷いも感じさせない、凛とした声だった。
「偽物の両親も、得体のしれない妹も気色悪いだけだ。あの世界もお前があそこで出会った人間も、すべて幻だ」
「でも、本当に平和で幸せな世界で……私なんかいない方がよかったんじゃないかって、そう思ってしまうんです」
ジェラールのぬくもりに寄りかかるように、オルタンシアはそう零してしまう。
「私のママとお父様が出会わなければ、私が生まれなければ……」
「だから考えても仕方のない仮定の話だと言っているだろう」
ジェラールの視線がこちらを向き、オルタンシアはおずおずと顔を上げる。
彼は真摯な瞳で、じっとオルタンシアを見つめていた。
「百歩譲って父上とお前の母親になんらかの責があったとして、お前には関係ないだろう」
「でも、私は二人の――」
「だから何だ。お前は誰かを不幸にしようと思って生まれてきたのか」
彼の手がオルタンシアの側頭部に移ったかと思うと、寄りかからせるようにそっと引き寄せられた。
その仕草に、オルタンシアは思わずどきりとしてしまう。
「……父上は愚かな人間じゃない。自分の行いがどんな結果を招くかくらい、事前に考えている。そのうえで、お前の母親と懇意になることを選んだんだ」
言い聞かせるように、ジェラールはそう口にする。
「俺は、父上の行動が間違っていたとは思わない」
その言葉が、じわじわとオルタンシアの心に染み込んでいく。
……ずっと、怖かった。
オルタンシア自身がジェラールの幸せを奪ってしまっているのではないかと。
もしもの可能性を知ってしまったら、ジェラールだって過去を変えた方がいいと思うのではないかと。
……ジェラールが、オルタンシアを恨んでいるのではないかと。
だからジェラールに嫌われる前に、自分自身に「これが正しいことだ」と言い聞かせ過去を変えようとしたのかもしれない。
そんな後ろめたさを、包み込むように。
ジェラールは静かに言葉を続けた。
「お前は俺の幸せがどうこうとやかましいが、別にお前に心配されなくとも自分の幸せくらい自分で見つけられる」
その言葉に、きゅっと心臓が締め付けられたような気がした。
――ジェラールの幸せ。
オルタンシアはずっと、その形を探し続けてきた。
彼を理解し、包み込んでくれるような温かな伴侶を得ることか。
それとも、仲睦まじい両親と血のつながった本物の妹に囲まれることか。
だが、ジェラールが告げたのはそのどちらでもなかった。
「俺の幸せに必要なのは、お前だ」
その言葉を聞いた途端、オルタンシアの胸に歓喜の波が押し寄せる。
父の本当の子どもではない、偽物の公爵令嬢で。
きっと、いくらでも替わりが効く存在でも。
それでも……ジェラールはオルタンシアのことを必要だと言ってくれた。
きっとオルタンシアはこの言葉を、ずっと忘れないだろう。
「お兄様……!」
感極まってジェラールの肩口に顔を押し付けると、彼は宥めるように頭を撫でてくれる。
「両親が破局しない家庭も、血のつながった妹もいらない。お前がいればそれでいい」
何度も何度も、まるでオルタンシアの心に刻みつけるように。
ジェラールは「お前が必要だ」と繰り返した。
「どこにも行くな。俺の傍にいろ」
「はい……」
次々と溢れてくる涙が、ジェラールの衣服を濡らす。
それでも彼は、少しも文句を言うことはなかった。
「一人で先走りすぎるな。何かあったら俺に言えといつも言っているだろう」
「ごめんなさい、お兄様……」
ジェラールを信頼していないわけではない。
それでも、彼に頼りすぎるのは躊躇してしまうことがあるのだ。
面倒で厄介な存在だと、彼に疎まれるのではないかと。
だがそれが逆に、ジェラールにとっては不満だったのかもしれない。
「元の世界のお前はずっと眠り続けていた。精神だけが魔神の領域に囚われていたんだ」
「そうだったんですね……」
「…………俺がどれほど心配したかわかるか」
少し咎めるようにそう言われ、オルタンシアの心はちくちくと痛んだ。
「本当にごめんなさい……」
オルタンシアは心から申し訳なさでいっぱいになった。
きっとジェラールにはまだまだ言いたいことがたくさんあるだろうが、彼はそれ以上オルタンシアを責めなかった。
そんな彼の優しさに、ますますオルタンシアの心はずぶずぶと深い沼に沈んでいくような気がした。
(……やっぱり、好きだなぁ)
そう思うのを止められない。
決して表に出してはいけない感情だということはわかっている。
目の前にいるのは「義兄の」ジェラールだ。
彼がオルタンシアのことを大切に思ってくれているのは、あくまで「家族」として。
いくら血がつながっていないとはいえ、妹に恋心を抱かれていると知れば気を悪くするだろうし、今のように優しくもしてくれないだろう。
(だからこの想いは、私の中に閉じ込めておかなくちゃ)
オルタンシアはあらためてそう決意した。
ジェラールがオルタンシアのことを必要としてくれているのなら、「妹」として彼の傍にいよう。
きっとそれが、一番いい形なのだから。
ゆっくりとオルタンシアの頭を撫でていたジェラールの手が、ふと動きを止める。
「お兄様……?」
そっと顔を上げると、ジェラールがじっとこちらを見つめていた。
その探るような視線に、オルタンシアはどきりとしてしまう。
彼は珍しく逡巡するような動きを見せた後、意を決したのかゆっくりと口を開いた。
「……もう一つ、お前に聞いておきたいことがある」
あらたまった言い方に、オルタンシアはごくりと息をのんだ。
(お兄様がこんな風に聞きたいこと……いったい何なんだろう)
ジェラールは良くも悪くも淡白であっさりとした性格で、こんな風に言葉を選ぶことすらほとんどないのだ。
いったい何を聞かれるのかと、オルタンシアは自然と身構える。
そんなオルタンシアをまっすぐに見つめながら、ジェラールはとんでもないことを口にした。
「お前が囚われていた世界の俺と……いったい何があった」




