179 理解しがたいロジック
「恨んでないの? どうして?」
「例えばお嬢様が私とチェスで勝負をしたとします。私が勝ったらお嬢様は私を恨みますか? 復讐したいと思いますか?」
「うーん……」
オルタンシアはその場面を想像する。
リュシアンが正体を隠して公爵家に仕えていた時、彼はオルタンシアに様々なことを教えてくれた。
公爵家の仕事としての知識だけではなく、社交界で好まれるゲームなどの手ほどきもしてくれたのだ。
もちろん、チェスの勝負をしたこともあった。
オルタンシアはそういったゲームがあまり得意ではなく、リュシアンに負けることも多かったが……。
「そんな、恨んだり復讐したいなんて思わないよ」
しょせんは盤上の遊戯だ。
熱くなりすぎる方がどうかしている。
オルタンシアがそう言うと、リュシアンはまるで授業の時のようにしたり顔で笑った。
「そういうことですよ」
「……つまり、私たちを取り込もうとして返り討ちになったのもリュシアンにとってはゲームみたいなものだったってこと?」
「その通り! さすがはお嬢様。相変わらず聡明でいらっしゃる」
ぱちん、とこちらに向かってウィンクを飛ばすリュシアンに、オルタンシアはほとほと呆れてしまった。
(あれだけのことをしたのにノリが軽すぎる……!)
オルタンシアとジェラールが散々悩み、苦しみ、傷ついてきたあの時間がリュシアンにとっては盤上のゲームと同じとは。
飄々としたリュシアンの態度を見ていると脱力してしまって怒る気力もわいてこない。
「……やはりもう一度切り刻んでおいたほうがよさそうだな」
さすがにあれだけ振り回されたジェラールは腹に据えかねたのだろう。
苛立ったような声で、リュシアンを威圧していた。
「おっと危ない。でもよろしいのですか? 何故お二人がこんなところを彷徨っているのかは存じませんが、私ならここから出るための的確なアドバイスを提供できますよ?」
ジェラールの本気を感じ取ったのか、リュシアンは慌てたように交渉を持ち掛けてきた。
「ここから出る方法を知っているの!?」
「やめろ、魔神の口車に乗せられるな。対価に何を要求されるかわかったものじゃない」
思わず前のめりになったオルタンシアを、ジェラールが静かに制する。
だがリュシアンはそんな二人を見て、珍しく穏やかな笑みを浮かべた。
「さすがは用心深いジェラール様。魔神の囁きには耳を貸さない方がいいのは確かです。あの手この手で人の精神を操り自分に有利なようにことを進めようとしますからね」
「うっ……」
リュシアン、そして眠りを司る魔神にもしてやられたオルタンシアには覚えがありすぎた。
だがしゅんとしたオルタンシアに、リュシアンは優しく告げる。
「ですが、今日だけ特別に無償でお二人へのアドバイスを差し上げましょう!」
「え、何で?」
これもリュシアンの罠なのだろうか。
半信半疑のオルタンシアに、彼は恭しく礼をして告げる。
「私はこれでも、お二人のことを気に入っているのですよ。人の身でありながら魔神を討つほど強大な力を持つジェラール様。そして……」
リュシアンの目がまっすぐにオルタンシアの方に向けられる。
その瞳には、確かにオルタンシアに対する賞賛の色が宿っていた。
「そんなジェラール様に寄り添い、正しき方向へと導くことができる唯一の存在であるオルタンシアお嬢様。お二人とも実に興味深い存在です。ジェラール様一人では世界を滅ぼす災いの剣となりかねないところを、オルタンシアお嬢様が傍にいることでその災いの力を世界を守るべきものへと変えていく。なんとも不思議な相互作用。我々魔神には実に理解しがたいロジックです」
やれやれと肩をすくめながら、リュシアンは歌うようにそう口にした。
「あの女神の采配がこうもうまくいくとは思っていませんでした。いやぁ、お二人とも実に興味深い」
「……お兄様はともかく、私は何もしていないよ」
目の前のリュシアンがあまりにも昔のリュシアンそのままだったせいで、オルタンシアは気が付けばそう零してしまっていた。
ジェラールが選ばれし存在だということはオルタンシアもよくわかっている。
彼は数多の強大な加護を持つ名門公爵家の跡取り。
そうでなくとも、彼には常人とは一線を画す特別な存在感があるのだ。
まさに選ばれし者だと、オルタンシアだけでなく誰もがそう思っていることだろう。
一方それに比べてオルタンシアは、簡単に替えの利く存在だ。
一度目の人生では、大した加護もなくあっさりと処刑されてしまったほどのちんけな存在。
二度目の人生ではたくさんの加護を貰ったが、それもオルタンシアが選ばれたわけではなく「ジェラールの闇落ちを阻止するため」に丁度良い駒だったというだけ。
しかもその加護もあまり使いこなせていないのだ。
なんとか「ジェラールと仲良くなり彼の魔王化を防ぐ」という女神に課せられたミッションは達成できたが、それもどれだけオルタンシアが役に立ったのかはわからない。
……眠りを司る魔神の見せた、悪い夢だということはわかっている。
だがそれでも、あの平穏で幸せなヴェリテ公爵家の光景が頭から離れない。
……いつも、不安になってしまうのだ。
オルタンシアの存在は、ジェラールにとって枷になってはいないかと。
オルタンシアの存在こそが、父や兄……ヴェリテ公爵家の幸せを奪っているのではないかと。
そんなオルタンシアの心中を感じ取ったのだろう。
リュシアンは「おや」と不思議そうな顔をし、一歩こちらに近づいてきた。




