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178 魔神の感覚

 現れた人物は、どこからどうみてもオルタンシアの良く知るリュシアンそのものだった。

 ここが次元の狭間で、彼がオルタンシアとジェラールを陥れようとして返り討ちになったことなどなかったかのように。

 まるで公爵邸の廊下の曲がり角で偶然出くわしたときのように、リュシアンは興味深そうな笑みを浮かべてこちらを見つめている。


「本当にリュシアンなの……?」


 おそるおそるそう声をかけると、リュシアンはくつくつと笑った。


「おや、私の顔をお忘れですか? お嬢様。それなら手取り足取り思い出させて差し上げ――」

「それ以上近づくな」


 にやにやと笑いながら一歩こちらに近づこうとしたリュシアンを、ジェラールが鋭い声で牽制する。

 今のジェラールは彼の背後で守られているオルタンシアが思わず怯えてしまうほど、冷たい殺気を放っている。

 リュシアンもジェラールの言葉がただの脅しではなく、本気であるとわかったのだろう。

 ぴたりと足を止めると、降参だとでも言うように両手を上げてみせた。


「おっと失礼。それ以上はご勘弁願いたいところですね。前回は一刀両断でしたが、今度は三枚おろしにでもされてしまいそうだ」


 前回――ジェラールに返り討ちになった時のことを言っているということは、やはり目の前の存在はリュシアンで間違いはないのだろう。

 戸惑うオルタンシアの表情を見て、リュシアンはまるでレッスンの時のようににっこりと笑った。


「『なぜ生きているのか』と言いたげな顔ですね、お嬢様。残念ながら我々魔神はしぶといので、滅多なことでは消えないのですよ。ですから神々も封印という手段を取ったのです」

「そうなんだ……」


 オルタンシアは不思議な気分を味わっていた。

 オルタンシアとジェラールを罠に嵌めようとした魔神がまだ存在していた。

 そう考えると恐ろしいが、今こうして相対しているリュシアンは……まるでヴェリテ公爵家に仕えていたころのリュシアンそのものだった。

 恐怖よりも、懐かしさがこみ上げるほどに。


「……随分と弱体化したようだな」


 じっとリュシアンを見ていたジェラールが、ぽつりとそう呟く。

 確かに、今のリュシアンは最後に「魔神」として対峙したときのような威圧感は微塵もなかった。


「ジェラール様にこの上ないほど叩きのめされましたからね。力を使い果たし、深い傷を負い、こんなところに落とされ……今の私は魔神の出涸らしのようなものです」

「出涸らし……」


 何とも言えない例えに、オルタンシアは渋い顔をしてしまう。

 そんなオルタンシアを見て、リュシアンはくすくすと笑った。


「相変わらずのようで安心しましたよ、お嬢様。やはりジェラール様の表情が動かない分、喜怒哀楽がはっきりしているお嬢様を見ると心が安らぎますね」


 リュシアンがそう口にした途端、ジェラールがさっとリュシアンの視線を遮るようにオルタンシアの前に陣取った。


「じろじろ見るな、穢れる」

「おやおや、ジェラール様の心配性も相変わらずのようで。そんな風ではお嬢様に恋人ができた時に大変ですよ?」

「……もう一度痛い目に遭いたいようだな。今度は短期間では再生できないように切り刻んでやる」


 ジェラールが剣を構え直したのを見て、リュシアンは慌てたように一歩後ずさった。


「おっと失敬。お二人の関係もお変わりないようで安心しました」


 今のリュシアンには、まったくこちらに対する敵意が感じられない。

 曲がりなりにも、あんな出来事があったというのに。


「……私たちのこと、恨んでないの?」


 ジェラールの背中からそっと顔を出し、オルタンシアはそう問いかける。

 あれだけ時間をかけ、周到にジェラールとオルタンシアを追い詰めたリュシアンなのだ。

 時間をかけた計画が台無しにされたと、笑顔の裏でメラメラと復讐心を燃やしていてもおかしくはないように思われるのだが……。

 オルタンシアの言葉を聞いたリュシアンは、きょとん、と目を丸くした。

 かと思えば彼は、おかしくてたまらないとでも言うように笑い始めたのだ。


「くっ、くはは! お嬢様は面白いことをおっしゃる!」

「別に面白くはないと思うけど……」


 急に笑い上戸になってしまったリュシアンに若干引いていると、彼は笑いすぎて出てきたであろう涙を拭いながら告げる。


「いえいえ、人間の思考は本当に面白い。ここしばらく人間と話していなかったので忘れていました」

(魔神の感覚はよくわからないな……)


 やはりリュシアンという人物は、飄々としていて掴みにくい。

 奇妙な懐かしさと共に、オルタンシアはそう実感していた。


「さて、私がお二人を恨んでいるかという話ですが……」


 リュシアンがきらりと光る目でジェラールとオルタンシアを見つめる。

 ジェラールが警戒するように、意識を集中させたのがわかった。

 だがリュシアンは突然襲い掛かってくるようなこともなく、けろりと笑って告げる。


「とんでもない! あんなに楽しませてもらったのに、どうして恨むことができましょうか!」

「…………ぇ?」


 予期していたのと正反対の答えに、オルタンシアは驚いてしまった。


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