177 別れと再会
……少しずつわかってきた。
彼女はリュシアンのように、強大な力を持つ魔神だ。
そしておそらくこの世界は、彼女の支配領域に当たる。
オルタンシアを孤児院出の庶民にするのも、どこぞの貴族令嬢にするのも、彼女にとっては人形遊びのようなものなのだろう。
……この世界でオルタンシアがどれだけ悩み、傷ついたかなど気にもせずに。
「ねぇ、いい案でしょう? 今度こそは――」
「黙れ」
魔神の言葉を、ジェラールが鋭く遮る。
「こいつの言葉に意味はない、惑わされるな」
ジェラールの言葉に、オルタンシアははっとする。
……知らず知らずのうちに、引きずられそうになっていた。
それほどまでに、この世界ではいろいろとありすぎたのだ。
そんなオルタンシアに、ジェラールは重ねて告げる。
「俺の声だけを聞き、俺だけを見ていろ」
「お兄様……」
その言葉が、道標になる。
先ほどまでの不安が、迷いが和らいでいくのが分かった。
「すぐに片づける」
そう言うと、ジェラールはあらためて魔神の方へと向き直った。
魔神もジェラールの纏う気配が変わったのに気が付いたのだろう。
初めて、焦ったような表情を見せた。
「お考え直しください! ここだったら面倒なしがらみもなく愛する人と一緒にいられるのですよ!? あなただって、元の世界では結ばれるはずがないこともわかって――」
「消えろ」
ジェラールが目にもとまらぬ速さで剣を振るう。
たったそれだけで、勝負はついた。
魔神の体が切り裂かれ、それと同時に空間全体が大きな揺れに襲われる。
「きゃ!」
思わずよろめいたオルタンシアを、ジェラールが離れないようにしっかりと抱き寄せた。
「空間が……」
オルタンシアの目の前で、空間そのものにピキピキとひびが入っていく。
「しょせんは魔神の作り出したまやかしの世界だ」
主である魔神がいなくなったので、この世界も存在を保てなくなったのだろう。
ひびわれ、崩れ落ちていく世界の中で……床に倒れ伏したままのこの世界のジェラールの姿が目に入る。
「ジェラール様……!」
オルタンシアはとっさに、彼に手を伸ばそうとしていた。
だがその途端、背後から強い力でその手を掴まれた。
「あれはただの幻覚だ」
そう囁くと同時に、ジェラールはこの世界のジェラールから強引に視線を外させるようにオルタンシアを抱き寄せる。
義兄の胸に顔をうずめながら、オルタンシアは少しだけ泣いた。
(……さようなら、ジェラール様)
この世界も、すべての住人も、魔神の作り出したまやかしだということはわかっている。
だがそれでも……この世界のジェラールが見せてくれた不器用な優しさは、忘れられそうにはなかった。
やがてオルタンシアとジェラールが立っている床もひび割れ、崩壊した。
二人の体は中空に投げ出され、ジェラールが守るように強くオルタンシアを抱き寄せる。
まるで夜空のような、真っ暗な中に時折光が瞬く不思議な空間を、二人はゆっくりと落ちていく。
(ここって、精霊界から帰るときに通ったのと同じ……)
おそらくは、次元の狭間なのだろう。
やがて降り立ったのは、青白い雪が降り積もる不思議な場所だった。
「歩けるか」
ジェラールにそう問われ、オルタンシアはこくりと頷く。
「なら行くぞ」
ジェラールは端的にそう告げると、さっさと歩きだした。
オルタンシアは慌ててその後を追いかける。
ジェラールは振り返ることはなかったが、歩く速さはオルタンシアに合わせてくれているようだった。
(お兄様……)
こうして彼と会えて、話したいことはたくさんあるはずなのに……どう切り出していいのかがわからない。
こちらに背中を向けたジェラールは、どこか怒っているようにも見え、オルタンシアは声を掛けられずにいた。
あたりには一面幻想的な雪原が広がっており、目印になりそうな樹木や建物などはない。
あっという間に方向感覚を失ってしまいそうだ。
(前にここに来た時は、チロルが一緒だったっけ……)
あの子は今、どうしているのだろうか。
元の世界のジェラールがこうしてここにいるということは、チロルも無事なのだろうか。
聞きたい。だがこちらを拒絶するような頑なな背中を見ていると、口を開く勇気が湧いてこないのだ。
オルタンシアとジェラールは黙ったまま、ひたすらに歩き続けた。
数十分か、数時間か、それとも数日なのか……。
永遠に続くのではないかと思わせるほどに、雪原いっこうには変化を見せない。
(私たち、ちゃんと帰れるのかな)
だんだんと、そんな不安が胸の中でふくらんでいく。
(私だけならまだしも、お兄様を巻き込んでしまうなんて……)
彼はただ、魔神の領域に囚われたオルタンシアを迎えに来てくれただけなのだ。
そんな彼を巻き込んでしまったことが、申し訳なくてたまらなくなる。
(せめて、お兄様だけでも元の世界に帰れますように)
そう、強く願った時だった。
不意に、前を行くジェラールが足を止める。
「お兄様……?」
不思議に思い前方に視線をやったオルタンシアは、思わず声を上げてしまった。
「あれは……明かり!?」
前方の遥か彼方……上空の星明りとは違るぼんやりとした明かりが、ゆらゆらと揺れている。
この空間に落ちてきてから、初めての変化だった。
「ランタンの光みたい……」
オルタンシアはとにかく状況に変化があったことが嬉しくて喜びの声を上げたが、ジェラールは警戒するように前方の光を睨みつけていた。
「何かわからない以上不用意に近づかない方がいい。下がっていろ」
「は、はい……」
オルタンシアは慌てて、ジェラールの背後に隠れるような位置に移動した。
前方の明かりはゆらゆらと揺らめきながら、だんだんと大きさを増していく。
こちらに近づいてきているのだ。
(いったい何なんだろう……)
オルタンシアはジェラールの背中越しにちらちらと様子を伺いながら、その何かが近づいてくるのを待つ。
やがて、ゆっくりと……薄闇の中にシルエットが浮かび上がる。
それは、ランタンを持った人影だった。
ジェラールが警戒するように剣を抜き、切っ先を向ける。
だが相手は怯むことなく、どんどんとこちらへ近づいてくる。
そしてついに……淡い光に照らされて、その姿が明らかになる。
「そんな、嘘……!」
オルタンシアは思わず驚愕の声を上げてしまった。
いつも冷静沈着なジェラールでさえ、驚きに息をのんだのがわかった。
「おやおや、これはこれは……お二人そろってこんなところで何をしているのです?」
その人物は、まるでからかうようにゆったりとそう告げた。
その声色には、離れていた時間や過去の確執などは微塵も宿っていなかった。
まるで昨日ぶりに会ったかのように、親しげに声をかけてきたのだ。
「どうして、リュシアン……!」
オルタンシアがその名を呼ぶと、やって来た人影――リュシアンはあの頃と変わらないミステリアスな笑みを浮かべた。




