176 叶わない夢が叶う世界
「ぐあっ!」
オルタンシアには、速すぎて何が起こったのかわからないほどだった。
気が付けばこの世界のジェラールの体は吹き飛ばされ、したたかに床に打ち付けられていたのだから。
「ジェラール様……!」
「放っておけ」
思わず駆けだそうとしたオルタンシアを、元の世界のジェラールが制止する。
彼はそれでもなお顔を上げこちらを睨みつけるこの世界のジェラールを冷たく見下ろし、吐き捨てるように言い放った。
「お前のような弱い者にはオルタンシアを守ることなどできない」
「くっ……!」
この世界のジェラールが悔しげに表情を歪める。
ジェラールは興味を失くしたようにもう一人の自分から視線を外し、オルタンシアの方へと向き直る。
「皆がお前を待っている。早くここを出るぞ」
彼はそう言って、オルタンシアの手を取ろうとした。
だがその時、今まで黙って成り行きを見守っていたマルグリットの声が飛んでくる。
「……すごい! すごいわ!!」
二人のジェラールに気を取られマルグリットの存在を忘れていたオルタンシアは仰天した。
ジェラールも鬱陶しそうに、マルグリットの方を振り返る。
「あぁ、どうしてわからなかったのかしら。お兄様が私を一番に愛さなかったのは、本物のお兄様じゃなかったから! そうなのね!!」
マルグリットは先ほどの狂乱が嘘のように、輝くような笑みを浮かべている。
彼女はタタっと元の世界のジェラールの下に駆け寄り、目を輝かせて彼を見上げた。
「私にはわかるわ! あなたこそが本当の……私のお兄様なのでしょう!?」
その言葉に、オルタンシアの心臓が嫌な音を立てた。
反射的に、元の世界のジェラールの様子を確認してしまう。
彼はいつものように無表情で、まるで路傍の石でも見るような目でマルグリットを見下ろしている。
そして、彼はゆっくりと口を開いた。
「知らん、誰だ貴様は」
ジェラールのあまりにもそっけない言葉に、一瞬虚を突かれたようにマルグリットの表情が固まる。
だが彼女は、すぐに大声で言い放った。
「私はマルグリット! ヴェリテ公爵家の唯一の娘!! あなたが本当に愛すべき相手よ!!」
マルグリットの言葉に、ジェラールはすっと目を細める。
「なるほど……」
ジェラールが再び剣に手をかける。
その全身からは、オルタンシアが怯むほどの気迫が溢れ出ていた。
「貴様がこの世界の『核』か」
彼は怨敵を見据えるような恐ろしい瞳で、マルグリットを睨んでいる。
さすがのマルグリットも、その気迫にたじろいだように後ずさった。
「ど、どうして……? ここならあなたが苦しむこともない。家族に愛され、いつまでも幸せに暮らせる世界なのよ? なのに、それを壊そうとするの!?」
ジェラールの心を揺さぶるように、マルグリットがそう口にする。
だが肝心のジェラールには、少しも響かなかったようだ。
「くだらない。そんな幻影に興味はない」
次の瞬間、彼は動いた。オルタンシアが止める間もなかった。
ジェラールは一瞬で、マルグリットの体を切り裂いたのだ。
オルタンシアはマルグリットの白い肌から血しぶきが舞うのを予感し、悲鳴を上げた。
だが、それ以上に予想外のことが起こった。
「えっ!?」
まるで入れ子人形のように、マルグリットの中から別の「何か」が出てきたのだ。
あまりにもわけがわからないことだらけで、オルタンシアはこれが夢なのか現実なのか判別がつかないほどだった。
だがジェラールは驚くこともなく、オルタンシアを自身の背後に庇う。
「やはり現れたな」
マルグリットの中にいる「何か」に向けて、ジェラールは敵意に満ちた声で呟く。
「お兄様、あれは……」
「お前をこの世界の閉じ込めていた元凶だ」
「えっ……!?」
「お前をここに閉じ込め、衰弱させ、限界まで精神を疲弊させたところで取り込むつもりだったのだろう」
ジェラールが「何か」に向けて、剣の切っ先を向けた。
「魔神ごときが随分と小賢しい真似をしてくれたな……」
その言葉に、マルグリットの中から現れた「何か」はゆらりと立ち上がった。
それは、息をのむほど美しい女性の姿をしていた。
(マルグリットの中に魔神が……?)
リュシアンという実例と何年も共に過ごしていながら、オルタンシアはいまだに魔神のことを半ば過去の逸話の中の存在だと思っていたのだ。
だが、そうではなかった。
ジェラールの言うことが正しいのなら、この魔神はオルタンシアに干渉し、影響を及ぼしていたというのだから。
彼女はジェラールの殺気にも怯むことなく、妖艶に笑う。
「さすがは魔神殺しの英雄様、ご明察ですね」
彼女が微笑むたびに、オルタンシアはひどい眠気に襲われくらりとしてしまう。
だがジェラールの方は、少しも揺らいだ様子を見せなかった。
「御託はいい。消えろ」
「あら、つれないのですね。せっかくあなたの大切な妹君と遊んで差し上げたのに」
魔神がオルタンシアのことを口にした途端、ジェラールの纏う殺気が一段と鋭さを増したのが分かった。
「……よくもそんな口が利けたものだな」
「あなたは誤解をされてますわ。わたくしの誘う夢は、決して悪いものだけではございません」
魔神がオルタンシアの方へと視線を向ける。
オルタンシアは思わずびくりと肩を跳ねさせたが、魔神は安心させるようににっこりと笑う。
「オルタンシア、わかるでしょう? ここは元の世界では決して叶わない幸せな夢が叶う世界。あなたのお兄様が失ってしまった物が、この世界にはあたりまえのようにあるの」
魔神の言葉に、オルタンシアの心は揺らいだ。
仲睦まじい公爵夫妻、ジェラールの本物の妹、幸せの象徴のような温かな家族の団欒……。
この世界で目にした、元の世界ではありえなかった光景が脳裏をよぎる。
……あれがジェラールの探し求めていた幸せなのだと、オルタンシアだってわかっている。
「『マルグリット』があなたにつらく当たってごめんなさいね。少し性格をわがままにしすぎたみたい。……そうだわ! 今度はあなたもどこかの貴族令嬢として配置してあげましょう。そうすれば、もっとうまくいくはずよ」
はしゃぐようにそう口にする魔神に、オルタンシアはぞっとした。




