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プロローグ 春日 凜太 『幼年期の終わり』

「話には聞いてたけど東京では肉まんに酢醤油付かないんだね」


 ミネラルウォーターのボトルが入った袋を右手に、肉まんを入れた袋を左手に携え春日(かすが) 凛太(りんた)は呟く。


「ブラックモンブランも九州しょうゆ味のポテトチップスも無かったし東京に来たんだなって実感したよ」


 空港から新居への道すがら街並みは見ていたが後に控えた引っ越し業者への搬入作業の指示や荷解きなどが気掛かりで新天地に来たという実感はなかった。一連の作業が一段落した今やっと視界に入るものに関心を持てる余裕が凛太に出てきた。


「九州の味がこれから恋しくなっちゃいますネー」


 凛太の横を歩く女性が語尾の上がったどこか気の抜けたイントネーションでそれに応える。

 だが彼女と初めて接する者はその風変わりなアクセントよりも容姿に意識を引き込まれてしまうだろう。彼女のブロンドの髪と青い瞳に比べれば話し方など些末なことだからだ。


「さっきスマホで調べたらポテチは通販で買えるみたいだよ。かなり割高になるけどね。」


「まとめ買いして来れば良かったですネー」


 春の夜風を受けながら住宅街を歩く2人は傍から見ると大学生くらいの年の頃のカップルに見えなくもない。だが彼らは断じてそういった間柄ではないし、そういった関係には絶対になり得ない。凛太の横を歩く異邦人は彼の母親だからだ。20代前半、下手をすれば10代後半に見えなくもないが彼女はこれでも二児の母である。


「……急な転勤に付き合わせてしまってごめんなさいネ……」


「別にいいよ。あのまま麗那を置いて都内の大学に進学するのは気が引けてたし」


「そう言ってもらえると気持ちが楽になりまス」


 凛太は第一志望である都内の大学に合格し、それに合わせて東京への転勤を打診されていた彼の母――エイミーがそれを了承し家族そろって東京へ引っ越すことに決めたのだった。エイミーの仕事の引き継ぎや引っ越し業者の繁忙などの理由により入学式前日に引っ越すというタイトスケジュールとなった。


「麗那は引っ越しの荷造りで泣きそうになってたね」


 ここ数日妹が大量のアニメグッズを傷付けないように納まりが悪くなっていないか慎重に確認しながらダンボールに詰めては出してを繰り返しいる姿を思い出し凛太は苦笑する。


「打ち込む趣味があることはいいですけど流石に限度はありますね」


 一般的な単身者の引っ越しの荷はダンボール箱10から15個の間に収まる。しかし麗那の荷はダンボール100個ほどになった。これは大家族の引っ越しの荷でもそうそう拝めない量であるらしく、トラックに搬入する際に引っ越し業者の青年が目を白黒させながら積荷を運んでいく姿を見ると客の立場とは言え春日一家は申し訳ない気持ちになった。


 一拍間を置くとエイミーは腫れ物に触るような表情で凛太の方を横目で見ると別の話題を切り出した。


「……凜太さん小説の方はどうですカ?」


 凜太は視線をエイミーから街灯が照らす夜道へと向ける。新居はもうすぐそこまで来ている。だが凛太には実際の距離以上に遠くに感じられた。


「……一応受験が終わってからちょくちょく書いてはいるけど他人様に到底見せられるレベルではない……かな。小説の体はとってはいるけどほんとそれだけ。編集さんは気を遣って言葉を濁してはいるけど要約すると全然ダメって言われたも同然だよ」


 努めて表情を変えず感情の籠らない淡々とした口調で問いに答えるがそれが母には逆に悲痛な印象を与えていることに凜太は気付かない。


「無理はしなくてもいいんですヨ。創作とは労力をかければかけるだけ良いものが出来るというわけではないのですかラ。無期限の休業をもらっているのですからモラトリアム期間を楽しみましょウ」


 明るく、だが嗜めるようにエイミーは諭す。


「うん……そうだね。都内の大学に進学したのは出版社が近いからっていう理由ではあるけど新しい環境で得られる経験は大事にしたいって思っ……」


『ンハアァァァァァァァァァァァァァァァ!!!!????』


 新居のアパートの玄関のドアノブを開ける寸前のことだった。神妙な雰囲気を一撃で切り裂く叫び声が響く。


「きゃっ!!」


「な、なんだ!?」


 正体不明の叫び声はそう遠くない所から発せられたようだが辺りを見回しても声の主は見当たらなかった。


「変質者ですかネ?」


「春先は多いらしいね」


「明日は始業式だし麗那さんに気を付けように言っておかなきゃですネ」


 玄関を開け靴を脱ぎリビングへ上がるとまだ外が騒々しい声が聴こえてくる。いや、壁から伝わる感じからすると建物の中からも響くような気がする。同じアパートのご近所さんの痴話喧嘩だろうかと考えながら凛太は妹の部屋の扉を開ける。


「ただい……」


『あーーーーーー!!わかったよ!!わかったから!!もうなんでもいいから早く俺のオチンチンをなんとかしろーーー!!』


 手に持っていた肉まんの包みが入っているビニール袋を落とす。目の前の光景に凛太は圧倒され言葉を失ってしまった。

 視界に二人の人間が入ってきた。


 一人はこの部屋の主であり制服姿の妹の麗那。彼女が着ているのは先日放送されていたアニメキャラクターのものだ。制服単体なら気付かなかったかもしれないがブラウンの長髪である麗那は作中のキャラの再現度が非常に高くすぐにそれがどのキャラのコスプレなのか一目で気付いた。ファッションオタクとアニメオタクの嗜好を融合させるとコスプレイヤーに昇華されるのかと場違いな考えが浮かぶ。


 もう一人は凛太にとって面識の無い人間だった。向かいの一軒家の窓から見える顔から察するに年の頃は麗那と同じくらいだろうか。海栗を思わせる黒い逆立った髪と鋭い目付きからきつい印象を受けるが視線を顔の下に向けるとそんな印象は頭から吹き飛んでしまった。奇抜なファッションだったからではない。むしろ何も着ていないのだ。片手にはスマホを持っているがその無機質なスマホのフォルムが彼の裸を強調している。視線をさらに下げるとパンツ一枚すら穿いておらずイチモツがむき出しになっており思わず凜太の視線がそこに注がれる。


「で、でかっ!!」


 目の前で繰り広げられている事態が飲み込めないものの凜太は隣人と思われる少年に男性としての器が負けていることだけは認識できた。


「お兄ちゃん!?」


「あ!?え!?お兄さん!?」


 先ほどまで二人でなにやら言い争っていたようだが二人の視線が自分に注がれたことで凜太の思考が見知らぬ男性器から状況の整理へと切り替わる。

 しかしコスプレ姿の妹が全裸の隣人に男性器の処理を懇願されているという状況から何が起こったのかを推し量るなどおよそ無理な話で思考は延々と脱線していくばかりであり考えが全く纏まらなかった。

「ていうかでかすぎだろ」、「オチンチンをなんとかしろってどういうことだ」、「二人はどういう関係だよ」、「もしかして妹に先を越された」、「俺は彼女出来たことすらないのに」、「大学で童貞卒業できるかな」、「俺もオチンチンなんとかしなきゃ」、「俺がコンビニ行ってる間に何があった」、「出会って4秒で合体?」…………

 凛太の意識が状況の整理と自らのコンプレックスとの狭間を反復横とびする。



「け、消しましたよ!」


「あ、ああ確認した!」


 何か言わなくては、だが何を言えばいいのかと頭を悩ませている間に気付けば少年は服を着ており麗那とのやり取りからことの発端がとりあえずは終焉したのだということを凜太は察した。

 その後騒ぎを聞き付けたエイミーと向かいの家の少年の母親らしき人物が部屋に入ってきて話の成り行きを両名から聞き、明日両家で謝罪しあう運びになった。




「要するに妹さんがコスプレの自撮り画像をTwitterに上げたら向かいの家の少年の裸が写り込んでて、それを知って焦ったその少年が全裸のまま怒鳴り込んできたってことですね?」


「そういうことみたいです……」


「そして明日はそのことに対する両家の謝罪に立ち会うから出版社の方には来れないということですね?」


「はい……」


 自室のベッドに横たわりながら電話口から聴こえる涼やかな女性の声に対して力なく凜太は応える。


「……真琴さん、東京だと全裸が最新のファッショントレンドだったりします?」


「最新どころが過去現在未来でそんなトレンドは発生しません」


 呆れたような疲れたようなそんな溜息が電話越しに聴こえてきた気がするが凛太はそれを気に留めないようにする。


「……お疲れ様でした。こちらは急ぎの用件ではないですしまた後日……そうですね今度の週末なんてどうですか?」


「あ、はい。その日でお願いします。どうも御手数おかけして申し訳ありません」


「いえ、別に構いませんよ。打ち合わせとは言っても大学入学のお祝いがメインみたいなものですしね。」


「お祝いだなんてそんな……そちらにはずっとご迷惑をおかけしてるのに……」


 ベッドから勢いよく起き上がりながら凜太は電話の相手に対して恐縮の意を示す。


「大学に進学して自身の選択肢を拡げたことは決して悪いことではないんですよ。書きたくたも書けなくなってしまう作家の方は決して珍しくはありません。だから後ろめたさを感じなくてもいいんですよ。早蕨倫先生」


 優しく、しかし、力強い言葉でこの一年くり返し何度も語りかけた言葉を担当編集者は凜太に投げ掛けた。

 その優しさが逆に凜太の罪悪感を煽る。


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