I09・マンション
彼女、有川知子さんに招き入れられて、大理石風の玄関で靴を脱いだ。
彼女が先導して、ミディアムブラウンの壁面収納の廊下を抜けて、右手側がダイニングキッチン、左手側がリビングだった。
白い大理石のセンターテーブルを中心に、それを取り囲むように白い革張りのソファがズラズラと「コ」の字で部屋の真ん中に置かれ、床は白い絨毯で、漆喰のように真っ白な壁面のリビングへと通されたのだが、そのリビングで更に私はビックリしたのだ。
それは、リビングの正面にある窓が、上は天井から下は床まで、左右の壁面までの全面が一枚ガラスだったのだ。その全面ガラス窓から見える夜景にまた驚かされた。その夜景は、この街が一望出来たからだ。
「ここからの眺めはとても良いですね」
私は振り返って、彼女にそう言った。ダイニングの奥にあるカウンターの向こう側、キッチンのブースに居た彼女がニッコリと微笑んだ。
「それが自慢なんですよ、このマンションは」
そう言って愛想笑いをしてから、彼女は慌ただしく料理の用意を始めた。
私はもっと窓に近づいてジックリと夜景を眺めた。全面ガラス窓にへばり付き、視線を足許の方に落として、私の自宅がある方向をジッと目を凝らした。高い建築物が乱立し始めたけれども、まだまだ低い建物が多い街だ。それは、所々にオレンジの刺繍が散りばめられた黒い絨毯のようだった。その中に自分の自宅である一軒家を何とか探し出し、それをしみじみと確認した。
(私の自宅はあんなに小さいんだ)
私が食い入るように外の風景を見ていたその時、私の真後ろから彼女の声が聞こえてきた。
「上着をお脱ぎになってください」
私はハッとして振り返った。彼女は私の真後ろの、本当に間近に立っていた。私は彼女が近づいたことにも気が付かないくらいに夜景に意識を集中して眺めていたのだ。
彼女は優しく、私に向けて両手を差出していた。
「こちらに上着を」
私はもどかしくコートを脱いで、彼女に手渡した。
それを受け取った彼女は、手馴れた手付きで私のコートをハンガーに吊るしてクローゼットに仕舞い込んだ。そのままダイニングへと移動した彼女は、テーブルから私を手招きした。
「さぁ、どうぞ。テーブルにお着きになってください」
リビングとの間に仕切りのないダイニングのスペースには、ホワイトオーク無垢材の一枚天板で大きなダイニングテーブルが据え付けられていて、同じホワイトオークで造られたハイバックチェアが高級感を如何にも演出していた。
私は彼女が招くままにそのダイニングテーブルに着き、ハイバックチェアに腰を下ろした。そこには既に料理が並べられていた。メインのビーフシチューからはもちろんだが、添えられたパンからも盛んに湯気が立ち昇っていた。
「まずは乾杯をしましょ」
彼女は、既に赤ワインが注がれたグラスを持ち上げた。注がれている赤ワインのグラスに水滴は付着しておらず、飲み頃の適温を物語っていた。そして、彼女はすぐさまグラスを持って目の前に差し出した。私もグラスを持って突き出した。グラスの縁が当り、チンと音がした。すぐに私と彼女はグラスに口をつけた。
旨いワインだ。フルボディなのに渋みが少ない。飲み下す時に甘い芳香が喉から鼻に抜けていった。たぶん、相当に高価なワインなのだろう。しかし残念なことに、私にはその程度のことしか判らなかった。
グラスを置いた彼女は、早々に料理を勧めた。
「どうぞ、お召し上がりになって。お口に合うかどうかは分かりませんが」
そう言って彼女は、愛らしく首を傾げた。
私はシチューをスプーンですくって口に運んだ。
心配そうに私を見つめる彼女。
そんな彼女に向かって、わたしはこう言った。
「旨い! 美味しいですよ」
私がそう言うと、彼女はこわばった顔をすぐに笑顔に変えた。
「良かったぁ」
よく煮込まれた牛のテールは口の中で溶けた。そして、添えられたサラダのドレッシングがチーズの風味で、胡桃のパンはまさに焼き立てだった。
先ほどまでの数時間、私と一緒に図書館に居たのに、この短時間でこれだけの料理が出来るのは不思議だった。いや、出来る訳がない。恐らく彼女は、前もって用意していたに違いないだろう。だとしても、暖かい料理をこんな風に同時に用意できるものなのかと疑問に思った。だから私はつい、彼女に訊いてしまったのだ。
「こんなに手の込んだ料理をどうやって? さっきまで私と図書館に一緒に居たのに」
私の質問に、彼女は照れくさそうに答えた。
「朝までじっくりと煮込んだシチューを毛布で保温してました」
「パンはパン焼き機でタイマーセット」
「サラダとドレッシングは今朝作って冷蔵庫で保存です」
私は呆れた。
彼女は私に手料理を食べさせるために、朝から、いや前日から料理を仕込んでいたというのか。
それにしても彼女は、私が間違いなく自分の部屋に来ると読んでいたのだろうか。
それ程の確信を、彼女は持っていたということなのか。
それとも、彼女は一か八かの賭けをしたというのか。
もし、私が断ったら彼女はどうしたのだろうか。
私が来なかったら、彼女は……。
彼女の料理を口に運びながら、私の頭の中は錯綜し、葛藤し、悶々としていた。
しかし、私はそのことは口に出さないで、ただ料理の感想を述べるに留めた。
「いやぁ、実に美味しいです」
彼女は首をすくめて、にこやかに微笑んだ。
「ありがとうございます。とっても嬉しいです」
彼女の仕草を見て彼女の言葉を聞いた私は、今は余計なことは考えずに彼女の手料理を堪能しようと、そう思ったのだった。
お読みいただき、ありがとうございます。




