H08・勘違い
「これからお時間、ありますか?」
彼女、有川知子さんにそう尋ねられた私は、何の躊躇もなくこう答えた。
「えぇ、空いてますよ」
私はてっきり、いつもの通りに中華料理屋の楼來亭での食事に誘われているのだと思ったのだ。
それ以前までは当たり前のことだったのだが、私は図書館を出た後は真っ直ぐ家に帰るだけだったのだ。それが最近は、有川知子さんと楼來亭で食事をすることが頻繁になり、それがいつものことになり、当然のことになって、私の中ではいつのまにか普通のことになりつつあった。なので、彼女と中華料理店で食事を共したとしても、それが何だというくらいにしか思えなくなっていたのだ。そんな気持ちの私なので、彼女に「時間があるか」と訊かれて、それは「いつも通りに楼來亭で食事をすることを訊いているのだ」とばかり思ったのだ。
だから、私は「えぇ、空いてますよ」と、とても気楽に、そして微笑さえ浮かべて、私は答えたのだ。
しかし、その後の彼女の言葉は微妙に違っていた。
いや! そうじゃない、全然違っていたのだ。彼女、有川知子さんの言葉だけでなく、表情も仕草も全く違っていた。
彼女はまず、私の返答に対してホッとした安堵の表情を私に向けた。そして、微妙に頭を傾げ、肩をよじり、両の掌を胸元で組んでモジモジさせていた。それから、頬を赤らめてこう言ったのだ。
「先週のお詫びに、私の手料理をご馳走したいですが」
私は彼女の言葉に驚いた。そして、私の頭脳は彼女が何を言っているのかをすぐに理解できなかったのだ。
(何だって? 手料理だって? 手料理って……何だっけ?)
私の表情は完全に固まっていたであろうと推測する。そんな状態の私にも係らず、彼女は私を無視して、潤んだ目で私を見つめ、その表情は妖しい笑みを溢れさせて、こう告げたのだ。
「よろしければ、私の部屋まで来ていただけますか?」
言い切った後、彼女は俯いてしまった。
私の胸の鼓動は急に早く激しくなって、意識が遠退く感じがした。そして、私は迂闊な答えをしてしまったと後悔した。
私はその誘いを断る手立てがすぐに思い付かなかった。いや、どうして彼女の誘いを断わるのだ。断わる理由、断わらなければならない訳でもあると言うのか? そんな理由や訳なんて私にはない。むしろ、私の心は逆じゃないのか。私の心は彼女の手料理が食べたいと欲しているほどなのに。いやいや、こんな宵の口に女性の部屋に行くなど、はしたないマネは出来ない。せっかく彼女が誘ってくれているのに、その好意を無下に断われる私なのか?
私の心の中は激しく葛藤していた。だが、グズグズと返答を渋れば渋るほど、窮地に陥っていくのを感じた。そして、その考えが私を引っ込み付かなくさせていった。
「え、あ、はい。いい、です」
結局、私はシドロモドロでそういう答えを口から出してしまった。それが、その時に私の考えられえる精一杯のことだった。どうしたらいいのかという言葉さえも思い付かなかったというのが正直なところだ。
それでも彼女は、私の曖昧な返事を聞いて嬉々とした。
「良かったぁ」
私と彼女は並んで、図書館を出た。
今までと違い、並んで歩く私と彼女の間隔は狭くなった。彼女の肩が、時々私の二の腕にぶつかった。ぶつかる度に私は、彼女のことを意識するのだった。そして気のせいかもしれないが、ぶつかる度に私と彼女の間隔が狭くなっているような、そんな気がした。
彼女の部屋までの道中、彼女はとても饒舌だった。
「今週、プロジェクトがひと段落したんです」
「私の資料の出来が非常に良くて解り易かったと先方に褒められたんです」
「初めてでした、こんなこと」
「嫌味な上司もその時ばかりは私に笑顔をくれました」
「嬉しかったわぁ、うふふ」
何しろ、彼女はひどくはしゃいでいたのだ。私との間隔なんかは、彼女にとっては一向にお構い無しだった。下手をすると彼女は、私にしな垂れてきているとさえ思えたのだ。
そして、私はといえば、彼女の話に相槌を打つのが精一杯だった。
彼女の部屋は、楼來亭を過ぎた一本先の大通りに建っている高層マンションだった。
このマンションは二年前に建てられたデザイナーズ・マンションで、かなりの高額で販売されていたという微かな記憶が私の中にあった。というのも、このマンションの建設当時にかなりな話題になったからだ。豪華な家具付きで至れり尽くせりの住宅設備と機器が満載だという触れ込みで売り出されていたという記憶でしかないのだが。私は彼女の、御曹司の話は満更ウソではないのかもしれないと思い返していた。
マンションの入り口にあるセキュリティブースで、彼女は暗証番号を押して扉を開いた。
「さぁ、どうぞ」
彼女は手招きして、私をロビーに招き入れてくれた。ロビーを抜けてその先のホールで、エレベーターが降りてくるのをしばらく待っていた。
彼女にとってはいつものことが、私にとっては未知の世界だった。キョロキョロしている私に、彼女はクスッと笑って言った。
「そんなに珍しいですか?」
私は彼女に不用意なところで声を掛けられたので、その反動でビクッとしてしまった。そして、私は素早く彼女を振り返った。
「えっ!? あ、はい。こんなところは初めてなので」
私が少しオドオドしている姿や行動が妙に可笑しいらしく、彼女は笑いをかみ殺していた。
エレベーターの扉が静かに開いて、彼女に続いて私はエレベーターに乗り込んだ。彼女がボタンを押して、静かにエレベーターの扉が閉まる。振動もショックもなく、重力に逆らう加速感だけが、エレベータボックスの上昇を感じさせてくれた。
一四階でチャイムが鳴った。エレベーター扉が閉じた時と同じく、すーっと静かに開いた。
「こっちです」
エレベーターを降りて、私は彼女のあとを付かず離れずに歩いた。やがて、彼女は一つのドアの前で立ち止まり、ドアに取り付けられたナンバーボックスに暗証番号を打ち込むと、小さく「カチ」という音が廊下に響いた。彼女はノブを回してドアを開いた。
「どうぞ、お入りください」
先に私が部屋の玄関へ入るように、彼女は案内した。私が玄関に入った後に彼女が入って後ろ手で静かにドアを閉めた。
「私の部屋へようこそ」
彼女はそう言って私に微笑みを投げてきたのだった。
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