J10・夕食後
食事中は然したる会話もなく、食器の音とシチューをすする音だけがダイニングにこだました。それでも時折、有川が私に話し掛けるのだが、私はほとんど上の空で、食事に集中していた。
「もう、津村さんったら!」
ちょっと大きな声の怒った様子で、有川は私に語り掛けてきた。その声に反応して、私は食事を口に運ぶのを止めて、有川を見た。
「はい?」
それを見て、有川はクスクスと笑った。私の姿が余程、間抜けだったのだろう。確かに口へ運ぼうとしてすくったビーフシチューのスプーンを、大きく開けた私の口の前で停めて返事をしたのだから。
「そんなに美味しいですか?」
呆れた表情で、有川は私に訊いた。
「はい、とても!」
無邪気に答える私を、有川はまるで子どものように受け止めたに違いない。
「うふふふふ……」
そう笑って目を細めて、私を見つめる有川だった。
食事を終えた私に、有川はデザートとコーヒーを出してくれた。
デザートはレアチーズケーキだった。これも昨日のうちに有川知子が作ったものだろう。程よく冷えていて、かつ甘酸っぱい香りが口の中に広がった。
コーヒーもミルサーで挽いたばかりの豆を、ドリップした薫り高いコーヒーだった。コーヒーはよく飲むのだけれども銘柄までこだわらない私には、残念ながらどこのどういうコーヒーなのかまでは語れなかった。
「ご馳走様でした」
私は手を合わせてそう言った。
「こんなに美味しい料理は初めてだ」
いつもの私なら、七割方は真実だが残りの三割はお世辞の入った社交辞令的な感想を述べるのだが、今日は心の底からそう思った。それを知ってか知らずか、彼女の目が嬉々と輝いたのを私は見過ごさなかった。そして、有川はワザとらしいほど照れて頬を赤らめた。
「そこまで言っていただいて、本当に光栄ですわ」
有川はくつろいだ表情を見せ始めた。
ダイニングでコーヒーをすすりながら、有川知子と世間話をした。もっとも話す内容は、楼來亭出の話とほとんど変わらなかったが。
それでも充分に楽しい時間だった。楼來亭とは違って、他の客はいないし、お店特有の喧噪もない。防音が完全に効いた静かな空間に、私と有川だけが居る。
二人っきりでこんなに静かなものだから、彼女の息遣いさえも手に取るように分かる感じだった。だからだろうか、有川のリップノイズがやたらと聞こえてくる。彼女はたぶん意識していないのだろうけれども、私の耳にはとても艶っぽく、妙に色っぽく聞こえてしまう。
だから、それがとても息苦しかったりする。先程から自分の鼓動が妙に首から頭へと響いている。ドクン、ドクン、ドクンという音が、自分の体の中から聞こえたことなどは今まで一度もなかったのだが。
とても長い時間、ここに居るような気がして、私はつい左腕の腕時計をチラリと見てしまった。見てしまってから、私は非常に後悔したのだが。有川も、私が腕時計に視線を落としたのに気付いて、壁掛け時計に視線を走らせた。
時計は、あと十分で午後九時を指そうとしていた。
有川は私に向き直って、微妙な言い方をした。それは私を探るような言い方だった。
「あら、もうこんな時間。奥様がお待ちになってるでしょ?」
有川は私にそう訊いた。
彼女は確信犯だと思った。私に配偶者がいないことなど、今までの会話や楼來亭でのことで薄々気が付いていたはずだ。有川は私の口からそれが聞きたかったのだ。
だから、私は有川の要求に応えたいと思ったのだ。どうしてそう思ったかは、その時には気付かなかったのだが。
「いや、私は独り者ですよ。家に帰っても母親が待っているだけです」
私の返答に、有川は複雑な表情をした。どうやら『独り者』の言葉は欲しかったようなのだが、『母親』という言葉は予想してなかったようだ。
「えっ、お母様が?」
そう問い返す有川に、私はいつもより平然として答えた。
「大丈夫ですよ、私はもうスッカリ『大人』なのですから」
その言葉を聞いて、有川は微妙だが安堵の表情を見せた。
しかし、私はここで帰宅する意思を有川に伝えた。このままダラダラと居ると、私はどうしていいのか判らなくなるし、その挙句に私が私でなくなってしまうような、そんな気がしたのだ。
「すっかりご馳走になりました。私はこれで失礼します。帰りが遅いと母親が五月蠅いので」
それを聞いた有川は、少し消沈した表情になった。だから、私はフォローにならない言葉を掛けた。
「母親は気丈過ぎて、私に厳しいんですよ」
気の利かない私の言葉だったが、有川はそれで納得しようとしていた。
私が席を立つと、有川も立ち上がった。
玄関で、有川は私の後ろから私にコートを着させてくれた。そして、私が靴を履こうとした時、私の背中に有川は倒れこむように抱き付いてきた。私はビックリして靴を履く姿勢のまま、固まってしまった。
有川は、やっと聞こえるような声で、私にささやき掛けてきた。
「また、来てくれますか?」
「図書館にいらっしゃってください。私はいつもそこにいます」
私なりに洒落た答えだと思ったのだが、有川にとってどうだったかは見当も付かなかった。それからすぐに、有川は私に抱き付いた手を緩めてくれた。私は立ち上がり、玄関のドアを空けてノブを持ったまま、玄関の外に出た。
「それでは失礼します」
そう言ってドアを閉めようとして振り返り、有川の様子にそれとなく視線を走らせた。
有川は、私が見たのを確認してから深々と頭を下げた。しかし、有川の頭が上がりきる前にドアは閉ざされてしまった。結局、彼女の表情を見ることが出来なかったのだ。
私は、帰る道すがらにいろいろな想いが駆け巡った。ウキウキ、ワクワクする気持ちが止まらなかった。
しかし、その気持ちを認めない自分がいて、更に「それは諦めたことなんだ」と言い聞かせる自分もいて、家に着くまで堂々巡りの愉しい葛藤が続いたのだった。
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