↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
20/22

T20・朝帰り

 月曜日の午前四時。

 春まだ遠い二月ではこの時間、充分に暗くて吐く息も真っ白になる。

『ガタ、ガタガタ、ガチャ、ガチャッ!』

 私はそっと玄関の鍵を開けるつもりだったが、冷え込みのせいでシリンダーが凍り付き、そのために大きな音を鳴らせてしまった。それでも可能な限り静かにそっと玄関ドアを開けて、中に入った後に自宅の様子を伺う。

 家の中は暗く、シーンと静まり返っていた。それは気持ちが悪い程に。

 凍て付いた街を歩いて来た、凍えている身体を温めるために、私はダイニングにある温風ヒーターのスイッチを入れた。二分四十秒後に暖かい風が心地良く私の顔を撫でた、その時だった。

「お帰り」

 私の背後から、しわ枯れた女性の声がポツリと聞こえてきたのだ。

「うわっ、ビックリしたっ!」

 私はビックリしてたじろぎ、慌てて温風ヒーターを倒しそうになるのを抑えて、なんとか振り返った。

「なんだ、母さんか」

 厚手のガウンをまとった母親の英香がそこに立っていた。

「なんだじゃないわよ。朝帰りなんて」

 そう言いながらも、母親は決して怒ってはいなかった。私は母親の怒りを買わないようにと、むやみやたらに警戒しまくって怯えていたのに。

「でも仕方がないわ。あなたももう大人なんですものね。今までに朝帰りが無かったことの方がおかしいくらいなのだから」

 私は、母親の意外な反応に逆に驚いていた。ただ、未熟な私を憂いていることに少しばかり反発を感じない訳ではなかったが。けれども、見守っていてくれたんだという想いも感じて、それも嬉しかった。

 だがしかし、それもほんの僅かな時間のことだった。温風ヒーターで部屋が暖まるまでの話だった。私の衣類にみっしりと付着していた例の「香水」が空気の温まりで匂いたち始めたのだ。

「ん?……くん、くん。あら?」

 母親は匂いを嗅ぎ付けたのだ、例の香水の香りを。

「淳くん、ひょっとして……」

 母親の態度が急に変わった。

「また、あの女性(ヒト)と一緒だったのね?」

 私は嫌な予感がしてきた。

「どうなの? 正直に言って!」

 あくまでも優しい母親の喋りではあったが言葉には棘があった。それも痛い程に。

 私は黙って温風ヒーターで暖を取り続けた。

「言わないつもりね」

 私は居心地の悪さを感じ始めていた。

「淳くんにそのつもりがなくても、この香りから判っちゃったけどね、ふふん」

 私はいたたまれなくなって、ストーブの前を立ちダイニングから立ち去ろうとした。その私の背中に、母親は実に優しいトーンで声を掛けてきた。

「六時半には起きてね。いつもの朝食を用意しておくわ」

 私は何も言わずにダイニングを出て自室へと向かった。


 何も考えずにベッドに入ってみたものの、知子と過ごした土曜日と日曜日のことが幾度も頭の中に再現されてしまって寝付けなくて、結局のところ窓の外が明るくなってしまった。

 時計を見ると、母親が告げた六時半を指し示していた。仕方なく、私は仕事着に着替えてダイニングへと向かった。ダイニングにはいつも通りの朝食を、母親が供してくれた。

 バターロールにアップルジャム、ロースハムとサラミにプレーンオムレツ、オレンジジュースにブルーベリーとヨーグルト、そして最後にエスプレッソ。

 母親のプレーンオムレツはとても美味い。少し多めの生クリームと火加減がポイントらしい。外はしっかりと焼けているけど焦げ目無く、中身はふんわりして柔らかく、トロリと半熟で。母親の料理で、このオムレツが最高だと私は思っている。

 ところが、である。

 その母親のオムレツを一口食べた途端に、昨日の朝食を思い出してしまったのだ。

 昨日の朝食は、知子の部屋で泊まったので、当然の如く知子が作ってくれた。それがプレーンオムレツだったのだ。

「ごめんなさい。卵しかなくて。だって、淳一さんがひとときも私を離してくれないから。だから、全く買物に行けなくて……」

 そう言って照れながら作ってくれた知子のオムレツと同じ味を今、母親のオムレツからも感じ取っていたのだった。もちろん、母親の方が数段も美味いのだが、味のエッセンスに微妙なルーツを感じたのだ。

「どうかしたの?」

 母親は、変な顔をしてオムレツを噛み締めて食べる私を不思議そうに眺めながら訊いた。

「母さん、オムレツの作り方を誰かに教えたことがある?」

 後になって後悔したが遅かった。私は何も考えずに母親に尋ねてしまったのだった。

「なぁに、藪から棒に?」

 母親は意味有り気に微笑んだ。

「いや、いいんだ……答えなくても。ちょっとね、気の迷いだから」

 私は言葉でごまかし、態度をごまかした。

 けれども、母親は私の言葉などは聞いていなかったように、滔々と坦々と話し始めた。

「淳くん、憶えてる? 母さんがお店をやってた時のこと」

 私はオムレツを平らげた。

「あのお店は共同経営で、真部由貴子(まなべゆきこ)っていう、母さんの大学時代の友達と一緒に経営してたの」

 所々焦げたロースハムを挟んだバターロールを頬張る。

「その彼女には娘(むすめ)が居てね。みんなで『ともちゃん』って呼んでたわ」

 オレンジジュースを飲み干す。

「淳くん、憶えてないかなぁ。お店の中に女の子が居たのを?」

「小学生くらいの女の子かい? それなら、何となく記憶にあるよ」

 気が付いたら、私は母親の話に聞き入り、相槌を打っていた。

「そうそう。その女の子よ、『ともちゃん』って」

「へ、へぇ、そ、そうなんだ。そ、それで?」

 私はブルーベリーヨーグルトに目を落とした。

「その娘がね、私のオムレツが美味しいから教えろって」

 エスプレッソを啜った。

「あの娘、何度も何度も練習してたの。だから、毎週土曜日と日曜日のお昼はいつもオムレツだったわ」

 母親は懐かしそうに、自分の作ったオムレツを突いていた。

 そして、私をキッ!と見つめて言った。

「淳くん、その女性(ヒト)は『ともこ』っていう名前なんでしょ?!」

 私は、飲み干そうとしていたエスプレッソを噴いてしまった。

「な、なんだよ、藪から棒に!」

 焦る私に対して、母親は余裕すら感じる笑みを湛えていた。

「もう仕事に行くから!」

 私は慌ててテーブルから離れてダイニングを出た。すぐに自室に戻り、シャツを脱いで着替えをした。それくらいに汗が噴き出していたのだ。

 言い当てられた驚きとその事実に対する驚きとが、私の身体を異常に興奮させていた。

 もちろん、知子と愛し合った『愛の熱症』が今だに私の身体に残っているであろうことも否定しないけれども。

お読みいただき、ありがとうございます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。