S19・寝室
いつの間にか、私は眠ってしまっていたようだ。
ベッドに差し込む、赤い夕陽が私の顔に当たり、眩しくて目が覚めた。私は辺りを見回して様子を伺う。ここは知子の寝室、それも今日初めて入った寝室であることを認識した。
気配を感じて振り向くと、シーツをまとった知子が座っていた。知子は、ボーっとしている私をじーっと見詰めていた。そして、無造作に置いた私の腕を優しく撫でていた。目覚めた私に気付いた知子はそのままベッドに倒れ込んで、私に寄り添うように寝転がった。それも満面の笑みで。そして、知子は私も耳元でささやいた。
「よかったわ、とっても」
それを聞いた私は、顔から火の出るような思いだった。この言葉が、一時間前に知子の肉体に夢中になった自分を思い出すきっかけになったからだ。一時間前の様々なことを思い出した挙句に、顔がやたらと熱い私は次の短い言葉を発した。
「ごめん」
私の言葉に、知子は妖艶な笑みを投げ掛けてきた。
「うふふふ」
知子は細くて柔らかい指で私の胸に触れ、その指先をスーッと滑らせて私の肋骨をなぞった。
私は、こういったことを何一つとして経験して来なかった。もちろん、そういうことがあると知識として頭では知っているけれども、それは理科の生物学で習う「交尾」の知識であり、保健体育で習う「性行為」という言葉程度の情けなさである。学生時代は勉強と研究に明け暮れて、女性と付き合ったこともなければ、女性の身体などに触れたこともなかった。加えて風俗に行かない、いやいや風俗に行ったこともない私にとって、知子の誘惑はこの世のモノとは思えなかった。それはまるで「女神の誘い」そのものように感じられたのだ。
何もかもが、いつもの知子とは全然違って見えた。
乱れる髪。
紅色した頬。
透き通る白い肌。
たわわな房。
くびれた腰。
豊かな尻。
スラリとした脚。
そして、漆黒のデルタ。
私は、そんな知子に魅了されて、本能のままに知子を無我夢中で貪った。そして、我を忘れて知子に突き進むことしか、私には成す術がなかったのだった。
私の横に寄り添っていた知子が起き上がった。まとっていたシーツがはらりと落ちて、一糸まとわぬ知子の身体がそこにあった。夕陽が知子の裸体をオレンジ色に染めて、健康的なその肢体に、私はしばらく見惚れていた。
「私、綺麗かしら?」
知子は悪戯っぽく笑って、私に問い掛けてきた。
「あぁ、惚れ惚れするくらいに美しい」
私は息を呑みながら答えた。
「言葉よりも身体の方が正直ね、うふ」
知子はそう言って、シーツを持ち上げている私の下半身に触れた。
「な、なにを……」
私はたじろいだが、それはシッカリと知子に把握されていた。
「ねぇ、もう一回……ダメ?」
知子の質問に、私は応えることが出来なかった。知子は私の上に覆い被さって、既に唇を重ねていたからだ。しかし、その質問に答えるまでもなく、私と知子は再び肌と肌とを強く触れ合わせていたのだった。
二回目の行為が終わった時、寝室の中はスッカリ暗闇に支配されていた。
腕枕で寝ている知子が呟く。
「おなか、空いてません?」
『ぐぅ』
私が答える前に、私の腹の虫が無情にも勝手に返事をしたのだった。
「うふふふ」
知子は身体を揺すって笑っていた。
「あら、私ったら! どうしましょう!」
笑いを止めて、急に慌て始めた知子。
「夕飯の支度が全然、間に合わないわ!」
「貴女のことだから、仕込みは終っているんでしょう?」
私は見透かしたように尋ねた。
「えぇ、仕込みは出来てますけど。でも、すぐに食べれるって訳ではないので……」
私を気遣ってくれる知子に、私は逆に提案をしてみた。
「それじゃあ、外食はどうです? 今から外に食べに行くっていうのは?」
暗がりの中で辛うじて見えた時計の時刻は午後七時を指していた。
「この時間ならいつも『楼來亭』で貴女と食事をしている時間ですから」
私はそう言いながら知子の髪を撫でた。
しばらく考え込んでいた知子だったが、急に私にしがみ付いてきた。
「それは素敵な考えだわ! しばらく『楼來亭』にも行ってないし、急に麻婆豆腐が食べたくなっちゃった。うふふ」
弾んだ声が嬉しそうな知子。
「それじゃ、決まりだ」
私はベッドから飛び起き、寝室の明かりを点けて脱ぎ散らかした自分の服を拾い集めた。
「着替え、してきます……」
知子は恥ずかしそうにシーツをまとって、隣にあるウォーク・イン・クローゼットへと消えていった。
「らっしゃ~い!」
いつもの通りに『楼來亭』の店主の威勢のいい声に迎えられて、知子と二人で店内に入る。いつもの通りに私と知子は入り口近くの四人席で合い向きに座った。いつもの通りに店主の娘がお冷とおしぼりを持ってきた。
「ご注文は、いつもの通り、ですか?」
店主の娘は相変わらず、ぶっきら棒に注文を訊いたけれども、少し愛想笑いをするようになっていた。
「今日はまずビール一本と餃子二人前!……でいいかな?」
自信無さ気で知子に訊く私を、知子は満面の笑みでうなずく。
「その後はいつも通りに、チャーハンと小盛りラーメンと麻婆豆腐だ」
注文票にサラサラと書き込む店主の娘に、私は付け足した。
「それから麻婆豆腐のことなんだが、今日からは一つの大皿で持ってきてくれ。しかも大盛りでな!」
私の言葉を聞いた店主の娘は、アングリと口を開けた顔を私と知子に見せた。
「今日はね、麻婆豆腐をたくさん食べたいの」
そう言ってウインクする知子に、店主の娘はタジタジになっていた。
店主の娘がビールを持ってきた時、奥から店主がわざわざ顔を覗かせた。
「どうしたの、お二人さん? 何か良いことでもあったの?」
私と知子はニッコリと笑って店主の顔を見て、声を揃えた。
「乾杯!」
「カンパイ!」
珍しく、部屋の扉を開けるのに手間取った知子。
私は玄関に入るや否や、知子を後ろから抱きすくめた。
そして、私は知子の唇を激しく奪った。
「いやん、餃子の味がするぅ」
少し困った顔をした知子。
「君の唇だって麻婆豆腐の味がするよ」
私はちょっと意地悪な言葉を吐いた。
「ん、もぉ!」
困りながらも嬉しそうな顔をする知子。
私はもう一度ねっとりと知子の唇を奪った。
「今夜は帰らない。帰りたくない!」
私はそう宣言した。
知子は静かにうなずいた。
「うん。私も貴方を帰したくない。いいえ、違うわ。今日は絶対に帰さないから!」
それを聞いた私は、知子を抱き上げて寝室へと向かったのだった。
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