N14・約束
オレンジ色に輝いていた窓の外が徐々に紺色に塗り変わった。夜の帳が落ち始め、窓の下の方に見える街に明かりが灯り始めた。そんな時間まで、私と知子は何も話をせず、見つめあったままずーっと抱きしめ合っていたのだ。
「明かりを点けなきゃね」
知子はそう言って、名残惜しそうに立ち上がった。私は彼女の動きを妨げないように彼女から手を離した。知子は随分と暗くなったリビングの中を蛍スイッチを頼りに壁に近づき、部屋の照明を点けた。その瞬間に部屋の中が煌々と白く輝き、私は眩しくて少し目が眩んだ。
「すっかり暗くなっちゃったわ」
知子は頬を少し赤らめてキッチンへ向った。カウンターの向こう側へ行く前に立ち止まり、私に向って笑顔でこう言った。
「少し待っててくださいね。すぐに食事の用意をしますから」
私は知子に向って大きくうなずいた。
私は、大きなガラスが前面にはめ込まれた窓を見た。ソファから座って見るその窓からの様子は、外の風景ではなかった。そこには明るくなった室内の様子が鏡のように映し出されていた。けれども、鏡ではなくガラスなので何処か頼り気の無い像ではあったが。
床は白い絨毯。漆喰のように真っ白な壁面。その真ん中にズラズラと置かれた、白い革張りのソファ。そのソファに座った人間がひとり。それは紛れもなく、私だ。三人掛けのソファの真ん中に座る私の姿は、何処となく間抜けに見えた。
頬が弛み、張りのない肌、そしてくたびれた身体。まだ禿げていないことが私の唯一の自慢だったりするのだが、それも時間の問題かもしれない。既に、私は若さを何処かに置いて来てしまった。さりとて、初老というにはまだ早いだろうと私自身は思っているのだが、それはあくまでも私の価値観に過ぎない。
しかし、そんな私でも好きと言ってくれるヒトがいると思うと、間抜けに見えなくなってくるから不思議だ。カッコいいとまでは言えないけれども、なかなかじゃないかなとか、そんなことを思ったり。自惚れだなと自分でも思い直して顔が赤くなる。
それにしても、知子は私のことが好きなのだろうか?
本当にそうだろうか?
私は知子に「好きだ」と言った。
しかし、知子も私にそう言った訳ではない。
知子はあくまでも私を受け入れてくれたに過ぎない。
けれど、その気がなければ。
知子にその気がなければ、私を部屋に入れないだろうし、それにさっきのように抱き合って……。
私は、ガラスに映った私を睨みつけながら、疑心暗鬼な葛藤を続けていた。
「こちらへどうぞー」
背後から私を呼ぶ、知子の声がした。
知子の声で私は我に返った。
私は、立ち上がりつつ振り返った。
知子がカウンターとダイニングテーブルの間で、忙しく配膳をしている姿が目に入った。
私は、そんな知子の姿にニヤケながら、ダイニングテーブルに着いた。
ダイニングテーブルを見ると、ご飯に味噌汁、焼き魚に煮物が並べられ、完全なる和食が用意されていた。
「今日も豪勢な料理ばかりだ」
私はそう言うと、知子は照れた。
「お口に合うかどうかが心配です」
知子はそう言いながら、知子自身もダイニングテーブルに着いた。
私と知子は手を合わせてから、食事を始めた。
ご飯は艶やかで硬すぎず柔らかすぎず、最高の炊き上がり。
味噌汁は具材がワカメと豆腐、乾しエビでダシを取っているようだ。
焼き魚は香ばしい香りのブリの照り焼きだった。
煮物は肉じゃが、ホウレン草のお浸しに、白菜とキュウリの浅漬け。
やっぱり、昨日から下ごしらえをしたんだろうか?
いや、そんなことは訊かないでもいいだろう。
「知子さんは、何を作らせても美味い」
私はそう言うと、彼女は謙遜した。
「食べてくれるヒトがいいからですわ」
私はその言葉に照れた。
そして、空になった茶碗を知子に差し出した。
「お替り」と私が言う。
「ハイ」と知子が返事する。
知子は両手で私の茶碗を受け取り、茶碗にご飯を盛った。
私はその姿をジッと見ていた。
それに気付いた知子が恥ずかしそうに言った。
「そんなにジッと見つめないでください」
私はハッと気が付いて視線を泳がせてしまった。
その様子を見た知子は手を口に当ててクスリと笑った。
それから、ご飯を盛った茶碗を私に差し出したのだった。
食事が終わった後、知子が後片付けを終えるまでの間、私はソファで本を読んでいた。
知子は、コーヒーとクッキーをソファの前の、センターテーブルに置いた。
「また、勉強なさってるんですか?」
そう言いながら、知子は私の隣に座った。
私はそう言われて、すぐに本を閉じた。
「いえ、暇つぶしですよ」
知子は、私に寄りかかってきた。
「何の暇つぶしなんです?」
私は照れながら、知子の顔を見て言った。
「貴女が片付けを終えるまでの時間つぶしです」
知子は私にますます寄りかかってきた。そして頬をポッと赤らめて言った。
「嬉しいわ……」
そして知子は、そっと目を閉じて顔を寄せてきた。
私も目を閉じて、そしてキスをした。
顔を離して目を開けた時、知子は小さな声でこう言った。
「泊まって……」
私は、その言葉に戸惑った。
戸惑ったというより、どうして良いのか分からなかった。
考えても言葉も何も浮かばなかったのだ。
私が放心に近い状態で考え込んでいる姿を見た知子は、急に自分の言った言葉の軽さを恥じ入ったようだった。
「津村さん、ごめんなさい」
そして、知子はソファの端に身を退いた。
「私、変なつもりじゃないんです。その、あの、ただ一緒に居たいって思ったんです。それだけなんです」
私は、知子の近くに座り直した。そして、知子の手を取って言った。
「私こそ、変なことを考えてしまいました」
「貴女の気持ち、大切にしたいです」
それから、知子の手の甲にキスをした。
知子は泣きそうな顔をして私を見つめた。
知子が落ち着いたところで、私はゆっくりと口を開いた。
「今日のところは、これで帰ります。次は、貴女ともう少し長い時間、一緒に過ごしたい。来週の土曜日、朝からここに来ます。それでは、ダメですか?」
知子は、ゆっくりとうなずいた。
「えぇ、いいわ。嬉しい」
知子は私の顔をじっと見た。
「絶対、約束よ」
私は大きくうなずいた。
「えぇ、約束します。必ず来ます」
私の言葉にうなずいてから、瞳を閉じる知子。
私はまた知子と唇を重ねたのだった。
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