O15・香り
「また、あの香りがするわね」
玄関を上がった私の後ろを歩きながら、母親はつぶやくように私の背中に言った。
私が母親の前を通り過ぎるだけで分かるのだろうか?
あぁ、そうか。
今日は知子の部屋に居た時間が長かったせいか。
それとも、知子をずーっと抱きしめたせいなのか。
確かに私自身も、微かに香る香水の匂いを感じている。けれども、女姓ならば何かしら、いい匂いがするのではないだろうか。シャンプーの香り、せっけんの香り、もちろん、香水を身に着けている人だっているだろう。私は、それだけのことだと思うのだ。
知子だって立派な女性だ。いい匂いの一つや二つ、香ったとしても不思議なことじゃない。いや、私はいい香りがして欲しいと思っているくらいだ。
いずれにせよ、私は母親の言葉を無視して居間へ入った。母親は私を追うようにして小走りで居間に入ってきた。
「最近、いつも遅いわね。この香りの女姓と一緒なの?」
母親は追いすがり、私を覗き込むように質問した。私はそれを無視して居間を通り抜け、縁側にある安楽椅子にドカッと座り込んだ。
「ね、答えて。どんな女性なの?」
それでも母親は追いすがって私に訊いた。
「普通の人だよ、普通の女性だって」
私は面倒臭くなってそう答えた。だが、母親は満足しなかった。母親は安楽椅子の横に座り、私の腕を掴み、そして私を見上げて言った。
「正直に言ってちょうだい。この香りは特別なのよ!」
厳しい剣幕で私に迫る母親。その態度に私は、ただ怖気付くのだった。
「な、な、何だって言うんだよ!」
私はつい、言葉を荒げてしまった。
「ねぇ、教えて、お願いよ!」
私の荒い言葉にも動じない母親を見たのは初めてだった。しかし、そう言われても私にはその香りが何のことなのかサッパリと分からなかったし、母親のこの態度が一番理解できなかった。
「そんなことを言われても、何のことだか全然解らないよ。普通のOLさんだよ、彼女は」
そう答えた私に、母親はまだ疑問を向けた。
「OLなの、その方? ホントに?」
これほど執拗な母親を見たのは初めてだった。そして、母親のしつこい言葉に私は今までに感じたことの無かった感情を感じた。それは、母親に対する嫌悪感だった。
「ホントだったら、もう!」
私は大声を出してしまった。
「今日の母さんは変だよ! 何でこんなにしつこいんだよ?」
私はまた言葉を荒げてしまった。すると母親はたじろいで私の腕を離した。それでようやく、母親は我に返ったようだ。
「あ……ご、ごめんなさい。母さん、どうかしてたわ」
そう言うと母親は立ち上がって、居間からキッチンの方へとそそくさと出て行った。私が去っていく母親の後姿を見送っていたら、居間の入り口で母親は振り返ってこう言った。
「お風呂、沸いてるから入ってね」
いつも私に掛けてくれる言葉の後、母親はキッチンに消えていった。キッチンに居るだろう、今は見えない母親に視線を向けたまま、母親の行動がどうしても解せない私だった。
翌朝は、いつもの通りだった。
いつも通りの朝食を、母親は私に供してくれた。
トーストにオレンジマーマレード、ソーセージとベーコンにスクランブルエッグ、オレンジジュースにフルーツ、そして最後にエスプレッソ。
母親はこうした洋風の朝食に馴染みが深かった。時々思い出したように、梅干と海苔と卵焼きと味噌汁の日本食になるのだが。
「ねぇ、準くん」
何気なく優しい声で、母親が私に話し掛けてきた。
「なに?」
ベーコンを頬張りながら、無造作に応答する私。
「母さんが仕事をしてた頃のこと、憶えている? 確か、準くんが大学生だった頃かしらね?」
「雑貨屋を共同で出店してたんだよね?」
私の答えに、母親は私に微笑む。
「そうそう。ちゃんと憶えてたのね」
「でも、それ以上は記憶にないなぁ。あの頃は大学の研究で忙しかったから」
私はスクランブルエッグをフォークですくって口に入れた。
「あぁ、そうだったわね」
母親は目を伏せた。
「一回か二回くらい、お店には足を運んだかもしれないけど」
オレンジジュースを喉に流し込む私。
「そっか。そうよね、それじゃ無理よね」
母親はトーストをかじりながら、フォークでスクランブルエッグを突付いていた。
「それがどうかしたのかい?」
私は母親の態度が気になって、思わず尋ねた。
「ん? ううん、何でもないわ」
そう言って母親は、私に愛想笑いをした。
そしていつもの通りに、母親は私を仕事に送り出した。
そこにはいつもと変わらない、いつもの私の日常があった。
私は市役所へ出勤して、朝八時から夕方五時、残業の日でも夜の七時まで書類の整理と窓口業務をこなし、そうして月曜日から金曜日まではあっという間に過ぎ去っていく。
気が付けば、あっという間に週末の土曜日になっているのだ。
その土曜日は緊張していた。
私の頭の中に『研究』の二文字がかなり薄くなっていた。
更に『図書館』も私の中の価値観ではかなり小さな存在になっていた。
私の心にあるのは『知子』だった。
知子の部屋に行く。
それだけで私をソワソワさせ、ワクワクさせた。
私はまた、家を遅く出ることにした。
例のケーキ屋『コンフィズリー』に行くつもりだ。
そこで知子の好きな『シュガーロゼッテ(Sugared Rosettes)』を買うつもりなのだ。
私は落ち着かなかった。
どうしてこんな気持ちになるのか。
その理由は十分過ぎるほどに解かっている。
けれども、どうにもそれを抑えることが出来ない。
何も手に付かないまま、時間が来るのを待っていた。
そんな私を、母親は実に心配そうに見守っている。
私はそれをヒシヒシと感じていた。
しかし、どうして母親が私の様子を気にするのか。
私には皆目、見当が付かなかった。
その時は。
やっぱり、あの『香り』だったのだろう。
だとしても、あの時の私では残念ながら気付けなかった。
初めての恋に夢中だったから。
本当に残念なことだったけれど。
お読みいただき、ありがとうございます。




