オト
カノンを聴きながら読んでほしい。
“輪郭の曖昧さ”
湿地の風景と同じで、
はっきり見えない、想像が美しい。
はるは音に敏感な子だ。
それが、この湿地の家を選んだ理由でもある。
すべての音が嫌いなわけではない。
しかし、ここには、はるの望んだオトのみがある。
湿地は静かだ。
鳥の声だけが予定外に響く。
湿地の家。
前の持ち主のことは知らない。
でも、暮らし方は似ているように思う。
朝日の差し方や、玄関の作りまでも。
私たちの暮らしに似ている。
この家までの道も遠くの門扉からくねくねと曲がっていることも。
何か意図があるように思える。
人を遠ざけ、自分たちを隠し、生きることだけにのみ存在する家。
私には意図がある。
食器を片付ける。
はるが掃除の準備を始める。
はるは裸足が好きだ。
少し湿気を含んだ床を
ペタ
ペタ
と、床が、足裏に吸いつく音をさせて歩く。
床を“足で確認”している。
はるは、濡れた床を裸足で歩く。
足裏で、まだ乾いている場所を探しているみたいだ。
はるが床を磨いている間、私は安心していられる。
この家は、今日も正しい。
私のベッドの下も毎日拭く。
はるは、雑巾を絞る前に必ず水面を見る。
揺れが止まるまで、手を入れない。
冬の水は冷たい。
はるは肩を震わせながら、それでも毎日同じ温度の水を使う。
雑巾を絞る。
水が、きゅ、と鳴る。
はるは、その音を聞いてから床を拭く。
濡れた床に、ブラインドの影が細く伸びる。
はるは、その線を踏まないように歩く。
はるの足裏は、少しだけ桃色をしている。
湿った木の上を歩き続けた色だ。
床が乾き始めると、はるは少し不機嫌になる。
光が変わるからだと、私は思う。
はるは、角を丁寧に拭く。
埃より、“残ること”を嫌っているみたいに。
バケツの中で、水が小さく揺れる。
はるは、その音が止まるまで動かない。
水を替えるたび、バケツの中に白い光が揺れる。
はるは、それを長く見つめる。
バケツを片付けると、石鹸を使って指をキレイに洗う。
優しく丁寧に。
次の準備をするように。
大きな窓は、
まるで、ピアノをそこに入れることを初めから想定していたように、
リビングに存在している。
中央にはグランドピアノがある。
私が、はるのために入れた白いグランドピアノ。
はるは、弾く前に必ず蓋に触れる。
はるによって磨かれた蓋は美しい艶を出している。
その白い艶を、左手の指でゆっくり撫でる。
はるは、椅子を引く音を嫌う。
少しでも床を擦ると、肩を揺らす。
だから、毎回静かに持ち上げて動かす。
湿地の午後は静かだ。
遠くで水鳥が鳴く。
そのあと、何も聞こえなくなる。
はるは、その静けさを待ってから最初の鍵盤を押す。
弾く曲は1曲。
彼から習った
カノン
彼がはるのために弾いていたのを何度か聞いている。
彼の弾くカノンは、いつも悲しげなオトだった。
ただ、はるのために、
はるのやすらぎのために
鍵盤に指で重さを乗せていた。
ただ、その表情に感情はなかった。
はるの奏でるオトも悲しげだった。
正確にリズムを打つ。
でも、
目で覚えられた指の動きは、重ささえも覚えてるように
彼のオトを正確に再現する。
湿気に弱いピアノは、
時々、音を狂わせる。
雨の日のピアノは少し低い音がする。
はるは、その違いにすぐ気づく。
調律師は来ない。
彼に習った通りに合わせる。
はるは、その音しか知らない。
でも、それすら習慣のように調律をする。
彼の習慣は、はるの中にコピーされている。
この1曲を弾くためのオルゴールのように
毎日、毎日。
はるはカノンを奏でる。
私は、それを聴きながら、1日の終わりを待つ。
カノンが終わると、はるはしばらく鍵盤に指を置いたまま動かない。
音が家の中から消えるのを待っているみたいに。
拍手もいらない。
静寂だけが終わりを告げる。
時間だけが静かに積もっていく
そして、はるはピアノを磨く。
眉を顰め、輝きを確認する。
自分の指紋さえも疎ましいように。
はるの母はピアニストだった。
「はる」の輪郭は想像できただろうか。




