意思
風は優しかった。
私は、そう思っていた。
でも、
優しさと諦めの違いを、
私は知らない。
風は、姉と母の三人で暮らしていた。
年子でいつも一緒に遊んでいたと言っていた。
外に遊びにいくことはほとんどなかったという。
ふたりは、祖母のところにピアノを習いに通っていた。
姉も風も祖母からピアノを習うことが唯一の楽しみだった。
母方の祖母は母に優しかった。
いつまで経っても可愛い娘だった。
母は、ふたりを預けては遊びに出掛け、
ある日、祖母の元にふたりを置いて、迎えにはこなかった。
それ以来、母には会っていないという。
林の中に建つあの家は、もともと祖母の家だった。
資産家らしく、居間にはグランドピアノに大きなレザーのソファ。
調度品のひとつひとつが重厚だった。
祖母は、姉を娘のように育てた。
ピアニストになりたいという姉に、好きなだけレッスンに通わせ、
音楽大学に行きたいと言えば、叶えた。
風は、祖母の視線の外にいた。
姉は、お人形を連れ回すように「風も一緒に」と祖母にお願いした。
風の意思などそこにはなかった。
ピアノは好きだった。
でも、
ピアニストになりたいと思ったことは一度もなかった。
発表会にドレスを着て、エナメルの靴を履く姉。
Tシャツにスニーカーの風。
華やかな姉は、祖母の夢だった。
大学に入ると、姉は自分の力を知ることになる。
次の年に入ってきた風が、大学教授に認められたこともあり、
自分の才能を疑い、狂ったように家でピアノを弾く。
祖母は、そんな姉を守るように、風に辛くあたる。
姉はそれでも風を離さない。
風を家から出さない。
病んでいく姉は、腕に傷を作る。
「風、見てて」
風は黙って見ている。
そこに風の意思はなかった。
腕に傷をつけては、姉は幸せそうに風を抱きしめる。
そこに風の思いはあった。
それでいい、と。
祖母も消えた。
あの子が産まれた。
母によく似た姉は、あの子を育てることはなかった。
その全てを風は守ろうと思った。
守るため。
風は音楽教師になった。
子どもが好きだったのかもしれない。
好きではなかったのかもしれない。
私は聞かなかった。
風も話さなかった。
でも、
あの子が大切なことは伝わっていた。
生徒を決して叱らなかった。
家族の誰とも意思の通うことのなかった風。
ただ、
学校のピアノを弾いている時だけは、
少しだけ呼吸が楽そうに見えた。
誰かのために弾く、自分の意思のあるピアノの音。
学校は、風の意思が通う場所だったのかもしれない。
風は、何も望まなかった。
そう見えていた。
でも、
望まないことと、
諦めることの違いを、
私は知らない。




