春
春になると、
何もない土から芽が出る。
鳥は帰り、
草は伸び、
花は咲く。
どうして毎年、
同じことを繰り返すのだろう。
忘れてしまうからだろうか。
それとも、
忘れたくないからだろうか。
湿地の春は、ヨシキリの囀りから始まる。
続いて様々な鳥たちが、天から地から春を告げる。
湿地の春は風が強い。
開けた窓から入る風は、白いレースのカーテンを揺らし、リビングのピアノの蓋を小さく震わせる。
はるは、その音を聞くと窓辺に向かう。
鳥を見るためではない。
風を見るためだ。
見えないものを見ようとするように、
じっと草原を見つめる。
何を見ているのかはわからない。
でも、
その横顔は風によく似ていた。
名前の知らない草たちが我先にと芽を出す。
庭先には土筆、野蒜。
乾いた土にはクローバーが這い白い花を咲かせる。
その白い花の茎を長めにつんで、花冠を作る。
頭に乗せるとはるは嫌がる。
でも、私の真似をして作ろうとする。
癇癪を起こしながら作ったその不器用な花冠を
私の頭に乗せ、満足をすると走り去る。
土の上を裸足で歩き、汚れた足を水を飛ばしながら洗う。
そのキラキラ光る水飛沫をはるは掴もうとする。
遊びながら洗う足は一向に綺麗にはならないが、汚れを嫌うはるは何度も足を擦る。
春の水はまだ冷たい。
踵を桃色に染める。
春の使うタオルは白。
これは、私が知っている限り変わったことはない。
柔軟剤を使ってふわふわにするが、はるはそれを楽しむことはない。感触が悪いと癇癪を起こす。
洗濯はボタンを押すだけなので、覚えるのは早かった。
午後になると、
私はピアノの蓋を開ける。
はるは椅子によじ登り、
鍵盤の上に指を置く。
まだカノンは弾けない。
それでも、
白と黒の並びを確かめるように、
一本ずつ指を落としていく。
ぽん。
ぽん。
湿地に小さな音が落ちる。
私は、その指を見る。
風の傷はない。
でも、
その指は確かに風のものだった。
はるは、何度も同じ音を鳴らし、
満足すると窓辺へ戻る。
風が吹いている。
鳥が鳴いている。
春は、毎年少しずつ形を変える。
それなのに、
私たちの暮らしだけは、
同じ場所をゆっくり回り続けていた。
春は、毎年少しずつはるを大きくする。
春になると、
湿地は目を覚ます。
鳥も。
草も。
私も。
そして、はるも。
変わらないものを残したくて、
ここへ来た。
でも春は、
残そうとしたものまで成長させてしまう。
それが少しだけ、
怖かった。




