風(かぜ)
風は、つかまえられない。
窓を閉めても入ってくる。
手を伸ばしても残らない。
それなのに、
草を揺らし、
水面を動かし、
確かにそこにいたことだけを残していく。
だから私は、
風のある場所へ行こうと思った。
人と深く関わることを避けてきた。
親とも同級生とも。
生きていることって、ひとりで呼吸ができることで
止まってしまえば、そこで終わる。
そんなに関わる必要は感じてなかった。
だけど、今まで風が背負っていたものは
自然と私に流れ、はると私は風に守られていたのだと気づく。
守っていたのは私だと思っていた。
関わることを避けることが、最も面倒なこと。
風は、その面倒なことをしてくれていた。
閉ざされた居心地の良い林の家は、風が作ってくれた世界だった。
ネットで片付けることのできない様々なこと。
「手続き」とか「権利」とか。
「社会」とか。
私の外側にあるもの。
あぁ、私はこれが嫌いだったんだ。
我を出す事で息苦しくなるなら、黙って息を殺したほうがいい。
ずっと、そう思って生きてきた。
余計なものを排除し、気になるものだけを残してきた。
でも、
林の家は捨てよう。
あれは、あの女のために作った、風の世界だ。
風とはるを連れて逃げよう。
もう、どこへも行かないように。
そして、誰もいない、知らない所へ行こう。
そこで、波を立てずに、そっと暮らそう。
私はインターネットマップで孤立している家を探した。
そして、この湿地の家を見つけた。
誰が建てたかわからないこの家は、買い手のない孤立した家だった。
はるとふたりで暮らすには十分な広さ。
湿地の中にあり、周囲は草原。
草は毎年少しずつ家に近づき、
何年かすれば、
そのうち草が全てを飲み込むだろう。
でも、
私はもう、ここから出ることはない。
私の外側にあるものに追われることもない。
白い玄関の引き戸は、重い木でできていた。
雪が降るので玄関は二重になっている。
二畳ほどのスペースは、宅配ボックスとして使おう。
誰にも会わずにすむ。
その先が、私たちの世界だ。
玄関には小さなシューズボックスがある。
私のスニーカー、はるのスニーカー。
私のサンダル、はるのサンダル。
私の長靴、はるの長靴。
その先はリビング。
全て壁は白の漆喰、床は白いリノリウム。
中央に白いグランドピアノを入れた。
私たちの暮らしに最も欠かせないものだ。
この部屋の主役。
風の指を残すもの。
手入れは、はるに覚えさせよう。
ダイニングキッチンには、
必要なだけの調理器具を置く。
食器棚はいらない。
食事ができるテーブルと椅子。
はるが自分で食器を洗えるように、小さな台を置く。
箸や洗剤を使う暮らしはしない。
銀のスプーンとフォークとナイフ。
つるんと洗える、白い食器があればいい。
今までもそんな生活をしてきた。
そして、これからもそうやって暮らせばいい。
寝室は2つ。
はるの寝室と私の寝室。
ベッドとクロゼット。
連れてきた風は、私の寝室に。
あの女の服は林の家に置いてきた。
香りだけは持ってきた。
はるが気に入っていたから。
私の寝室に置く。
風の隣に。
「満足?」
と、どちらにでもなく聞く。
どちらの返事もない。
林の家には、
風が残したものが多すぎた。
音。
匂い。
指。
傷。
だから私は、それらを置いてきた。
持ってきたのは、
はると、
白いピアノと、
少しの香りだけ。
湿地には風が吹く。
草を揺らし、
鳥を飛ばし、
水に波を作る。
私は、その音を聞きながら眠る。
もう探さなくていい。
風は、
どこにもいないのだから。




