静寂
静かな場所が好きだった。
突然鳴る音。
知らない声。
切り裂くような笑い声。
そういうものが減るたび、
世界はやさしくなる気がした。
だから私は、
少しずつ音を消していく。
私は、あの子に「はる」という名前を付けた。
はるは、あの子の母の名前だ。
私があの子を「はる」と呼ぶと、風がビクッとする。
あぁ、風の感情は生きている。
そう、思えた。
何もかも捨てて、私の元に留まっているように見えるが、
決して、姉を忘れていない。
だから、私はあの子を「はる」と呼んで完結させた。
私は、私。あの子は「はる」そして、風と3人で林の家で暮らそう。
私ははるにあいさつを教えた。
私のためのあいさつ。
私のベッドの前で膝をつき
「おはよお」
と言って、唇を頬に当てる。
私は、ガラス玉で光を泳がせる。
はるはきゃっきゃとはしゃぐ。
その光景を風は少しだけ、目に感情を戻してみている。
私は、この瞬間が、ずっと続けばいいと思う。
風に
「はるのために、カノンを弾いて」
と、あの女に少し似た口調で言う。
風は、何も言わずにカノンを弾く。
はるは、じっとその指の動きを見ている。
この曲を停めれば、はるは癇癪を起こす。
風は、何度も何度も、まるで全てが繋がっているように
繰り返し弾く。はるは飽きずにそれを見ている。
「はる、大好き?」
と、私が言うと
「はるだいすき」
と、はるは言う。
風は、この瞬間のためにカノンを弾いている。
風は、携帯電話の音を嫌がるようになった。
最初は、音を消すだけだった。
次は、裏返して置くようになった。
やがて、充電もされなくなった。
テーブルの端で、黒い画面だけが静かに沈んでいる。
職場からの連絡かもしれない。
役所かもしれない。
児童相談所かもしれない。
でも、風は見ない。
「出なくていいの?」
そう聞くと、
「……ん」
とだけ答える。
私は、その携帯を静かに引き寄せて、
引き出しの中へしまった。
林の家から、またひとつ音が消えた。
カーテンを閉める時間が早くなった。
はるは、月の見えない夜は、外への興味を失う。
だから私は、家中のカーテンを閉める。
風は何も言わない。
突然知らない声がするのを、はるは嫌がった。
カーテンによって光と音が遮断される。
私たちの世界が減る。
そんな時は、ガラス玉の中のふたりのことを考えながら
私はキッチンでスープを混ぜる。
小さな世界で、温まるスープ。
幸せって、こういうことだと、幸せを知らない私たちに擦り込む。
家族とは、こういうものの繰り返しなのかもしれない。
私は、そう、思う。
「美味しい?」
風は頷く。
言葉は減っていった。
風は、カノンを弾くために生きている。
林の家は毎夜、静かだった。
泣き声も減った。
テレビもない。
電話も鳴らない。
必要な音だけが残った。
風はもう、
存在自体がわからなくなっている。
ときどき、どこを見ているのかわからない。
正気を失った瞳には何が映っているのだろう。
カノンを弾きながら、私の愛する指だけが意識を残している。
はると一緒にガラス玉の光を追いかけて、風はどこかに消えてしまいそうだ。
夜中、
ベッドの軋む音がしない日が増えた。
そんな日は、私の部屋のドアの前に、風が立っている。
そして、じっと私が眠るのを待っている。
私は息を殺す。
姉がいないことを確認して、風は部屋に帰る。
次に朝、起きたら風はいないのではないかと思うことがある。
林の家から、
少しずつ音が消えていった。
電話の音。
泣き声。
笑い声。
残ったのは、
G線上のアリアと、カノンと、水音と、呼吸だけ。
静寂とは、
やさしさではない。
何も逃がさない、
閉じた音だ。




