軋み
壊れる時、
人は大きな音を立てるとは限らない。
湿った木が、重みに耐えきれず、小さく鳴る。
古い家は、ずっと前から壊れ始めている。
風は、以前に増して無口になった。
風が出勤する時間に、あの子は起きてこなくなっていた。
音楽は午前8時にセットしていた。
目が覚めていても、あの子はベッドから出てこない。
繰り返し、大好きなカラス玉のキラキラするタイミングを教えた。
早く起きてはいけない。
この音を聞いたら、ご褒美を受け取ることができる。
あの子はワクワクしていたに違いない。
風は、そんな、あの子を見ることはできない。
見せることはしない。
あの子と私の大切な時間。
帰ってくると、風はベッドに入っている。
遊び疲れてぐっすりねている。
静かだ。
夜中に目を覚ましても、泣き声はしない。
風は、その静けさに耳を澄ませているようだ。
そして、風は、ほっとしている自分を責めているのだろう。
姉の香りを纏った私が、夕飯を作って待っている。
あの女は、家事などしなかった。
だから、風は、私が姉ではないことを思い知らされる。
髪は日に日に伸びて、風の愛した姉の髪と同じ長さになっていた。
私は、鏡で毎日、確認してきた。
そこから漂う姉の香り。
風はどんな気持ちで息をしているのだろう。
もう、息をすることさえ苦しくなっているだろうか。
風が息を止めるのを感じると、私は少し安心した。
あの女の服を3枚だけ、クロゼットに残していた。
服を時々着て、自分を鏡に映す。
服のサイズに合うように、時間をかけて、自分の体型を合わせていく。
そして、3枚の中の1枚を着て、仕事から帰った風を迎える。
「おかえりなさい」
姉の服を着た私に、風の動揺が音を立てる。
古い柱のようにめりめりと。
毎日は着てはいけない。
ここに今いるのは「私」。
あなたの愛した姉ではない。
私は、風を楽にしている。あの女のように苦しめたりしない。
私は、風の中の境界を確かに軋ませている。
でも、これは境界線ではなく、私だ。
私は、腐った記憶を纏っているだけ。
あの指を手に入れた今、丁寧に夢の中で保管したい。
そう、これは風のための幻影だ。
それがあの指の美容液となり、美しく生きていくのだ。
なのに、
風は、あまり食べなくなった。
朝食は、毎日、グラノーラにミルク。
昼は職場でどうしているかはわからない。
夜はお酒を飲むようになった。
お酒を飲みながらソファで寝て、
目が覚めると階段を昇り、となりの部屋に入る音がする。
風が寝返りを打つたび、ベッドが小さく軋む。
古い家は、重さがかかると音を立てる。
人も、きっと同じなのだと思った。
私は、それをベッドの中で聞いて眠る。
風の体のあちこちに影が見えるようになった。
風の顔から、少しずつ生活の色が消えていった。
感情が見えない。
ピアノを弾く手も停まるようになった。
音が止まるのは違和感があり、あの子は騒いだ。
風は、それを待っているかのように、音を停めた。
あの子は風を見ない。
ただ、癇癪を起こす。
私は、ガラス玉越しにそれを見ている。
ガラスの部屋にふたりがいる。
ふたりの世界が見える。
そして風は、学校を辞めた。
風は、自分に気づいていない。
ただ、
静かな家に耳を澄ませている。
泣き声の消えた夜。
止まるピアノ。
軋むベッド。
私は、それを隣の部屋で聞いている。
まるで、
夢が形になる音みたいに。




