腐敗
腐るものは、やわらかい。
湿った紙。
濡れた木。
置いたままの果物。
人の記憶。
形を残したまま、
静かに崩れていく。
私は、その匂いが嫌いではなかった。
最後のベビーシッターは「怖い」と言って、ここを去った。
「あなたが頼りなんです。辞めないでください」
引き留めたが、紅茶カップの底に沈んだ長い髪を見つめ、彼女は返事をしなかった。
林の家の安定。
それは、私が風の姉の記憶に重なっていくことで、風にもたらすざわめき。
大切な姉の子の落ち着き。
風と私とあの子の危ういバランスで保つ安定。
あの女の部屋から見つけた、その存在のカケラを
私はそこここに飾る。
本棚には、女の残した本が並んでいた。
難しい専門書。
写真集。
湿った紙の匂い。
私は、それを少しずつリビングへ運ぶ。
「こんな難しい本を読んでいたんですね」
風は、少し困ったように頷く。
「ああ。姉は、集めるだけ集めて、途中までしか読まないんだ」
その言葉だけで十分だった。
私は、途中まで読まれた本を開く。
折られたページ。
線の引かれた言葉。
飲みかけの感情。
私は、それをなぞる。
あの女になりたいわけではない。
でも、
風の中に残る女の輪郭を、
少しずつ、自分に移したかった
風がリビングに積まれた本に気付く。
「この本…」
「興味があったので、読ませてもらいました。勝手に読んで、ごめんなさい」
「いや、いいんだ」
私は何日もかけて、その本を読む。
何日も何冊も、本をリビングに置いたままにする。
パタパタとあの子は汚れた手で本を触る。
本を開いてページを引きちぎる。
あの子は、紙を破る音が好きだった。
びり。
びり。
湿った部屋に、小さな破裂音が響く。
私は止めない。
風だけが、「あっ」と声を上げる。
破かれていくのは、
女が残した専門書だった。
風は、散らばった紙を拾い集める。
私は、その指を見る。
壊れていくものを前にした時だけ、
風の感情は少しだけ見えやすくなる。
私はガラス玉をキラキラさせて、ご褒美をあげる。
あの子は本をびりびりと破く。
「ごめんなさい」と、私は風に言う。
「ごめんね。読んでいたのに」と、風は私に言う。
女の服も、少しずつ処分した。
「あの子が汚してしまって」
そう、言えば、風は怒らない。
柔軟剤の匂いだけが、クローゼットに残る。
女の部屋には、まだ匂いが残っていた。
甘い香水。
湿った布。
薬品。
古い紙。
私は、クローゼットを開けるたび、その空気を吸い込む。
風は、この匂いの中で生きていた。
だから私は、少しずつ同じ香りを纏う。
ハンドクリーム。
柔軟剤。
そして、女が残したパフューム。
鏡台のパフュームも、少しずつ減っていく。
風は何も言わない。
使っているのは私だ。
姉の香りが目の前を通り過ぎても、風は何も言わない。
でも、私にはわかる。
すれ違うたび、呼吸が止まる。
私は、その一瞬を見逃さない。
風は、小さく、そっと息を吸い込み、姉を感じている。
大丈夫よ、風。
ここにいる。
この部屋に残る女を、
ひとつずつ静かに腐らせて、私はそれを身に纏う。
風は、少しずつ女を忘れていく。
いや、
忘れているのではない。
私と混ざっていく。
声。
匂い。
髪。
本。
傷。
区別が曖昧になっていく。
腐敗とは、消えることではない。
境界がなくなっていくことだ。




