孤立
孤立とは、ひとりでいることではない。
誰かと同じ景色を見ているはずなのに、
その景色の意味だけが、少しずつ、違っていくことだ。
気づけば、言葉は届かなくなる。
そして人は、
沈黙の数だけ、
誰かから遠ざかっていく。
林の家を訪れるのは、郵便とふたりのベビーシッターだけになった。
私は、ベビーシッターのいる水曜と木曜に女の残した書物に目を通し、女の考えや、好きな言葉を体の中に入れる。そして、想いを巡らせ文を書く。
胎内循環。
水曜日のベビーシッターは、子ども好きで私の母くらいの年齢の女で、あの子の世話をよく見てくれるとてもいい人だった。
ある日、私とあの子と3人でランチをし、
「大学に行ってきます」と言って、いろいろな手続きをして帰ると、ベビーシッターは片付けもせずに眠り込み、あの子はどこにもいなかった。
ベビーシッターを起こし、居場所を聞くが
しどろもどろで、わからない。
間も無く、あの子を抱えた風が帰ってきた。
「警察に保護されていた」
ネームタグから、風の勤め先に警察から連絡がきたという。
ベビーシッターは、慌てていた。
「長くベビーシッターをしてますが、こんなこと…一度もなかったんです。申し訳ありません。仕事中に寝るなんて・・・」
風は許さなかった。
それから風は、ベビーシッターを雇わなくなった。
「もう他人は家に入れない」そう言った。
宅配は置き配になり、
必要なものは私が受け取る。
風は、玄関の鍵を確認する回数が増えた。
夜中に起きて、窓の鍵を確かめる音がする。
かち、
かち、
かち。
私は暗い部屋で、その音を聞いていた。
風は、壊れた信頼を拾い集める代わりに、
世界を小さくしていく。
あの子を抱く腕だけが、少しずつ強くなる。
それはきっと、正しいことなのだと思った。
世界は、あの子に優しくない。
忘れる。
眠る。
目を離す。
愛情より先に、「慣れ」がやってくる。
だから風は、誰も信用しなくなっていく。
そして私は、その閉じていく世界の中心に、
自分がいることを、静かに幸福だと思っていた。
「こめんね」と、風は私に言った。
何に対して、風は謝っているのだろう。
「ごめんなさい」と、私も風に言った。
「あの人が時々、昼寝をしてること。わかってたのに」
私は私さえ知らないことでも誰にだって話せる。
風は、何も言わなかった。
誰かを信頼するたび、風は傷つく。
そのたびに、風の世界から、人が減っていく。
あの時のベビーシッターの気持ちも、
風の怒りも、
警察に抱えられていたあの子の事実も
私の思い通りに作り出すことができる。
信頼なんて、壊すのは簡単だ。
そして、
誰にも語れなくなった風の孤独だけは、
内側から壊れていく音しかしない。
そしてその音は、
静かな家ほど、よく響き、
私はそれを聴きながら安らかに眠りにつく。
誰が、誰だけを必要とするか、その形を整えていく。
孤立は、風を強くし、脆弱にする。
私は、手に入れた弱きものたちを、永遠に見つめられるように、ここにいる。




