痕跡
「私」が、生活の中に残り始める。
「私」が、生活の中に必要となる。
風が帰ってくる。
「ありがとう」
今日1日への感謝の言葉だ。そこに愛はない。
風は決して姉への気持ちを裏切らない。
それがいい。
私は、その傷のある美しい指で触れてほしいわけではないから。
風の買ってきた食事を二人で食べて、私は帰る。
金曜日担当のベビーシッター。
その立場を崩すのはまだ早い。
「送っていくよ」
風は必ずそう言う。社交辞令だ。
あの子を置いていけるわけがない。わかってる。
それでいい。
あの子は姉の残した大切な子。
もう少し、あの子の中に姉を見て、もっともっと大切な存在にしたい。
「大丈夫です」
そう言って私が一人で帰る理由がある。
私の部屋は、林の家の裏手にあるマンションの1室だ。
そんなに近くにいることを知られてはいけない。
まだ、早い。
そして、少しずつ、あなたの愛する姉の髪の長さになるまで、ゆっくりと。
そして金曜日もゆっくりとやってくる。
今日は何をしようかと考える。
どうすれば、
私がいることを当然にできるか。
どうやって、少しずつ「私」をここに残すか。
柔軟剤を変えるようなわかりやすい事ではなくて、必要になっていくこと。
「助かる」
「ありがとう」から
「お願い」に変わる。
風に、そう言ってもらえる手順を考える。
私のマグカップは当然、なかった。
だから私は、毎回同じ白いカップを使った。
三回目の金曜日。
風は、何も聞かず、そのカップにコーヒーを注いだ。
タオルを畳む場所を決めた。
次の金曜日、風は同じ場所に畳んでいた。
あの子は、金曜日になると暴れなくなった。
私が来る時間になると、窓を見るようになった。
でも、起きない。
G線上のアリアが流れないから。
風は、独り言みたいに言った。
「先週、久しぶりに、夜泣きがなかったんだ」
玄関に、私用のスリッパを置いた。
冷蔵庫に、風の好きなヨーグルトを入れておいた。
金曜日の帰り道、
私は、部屋の灯りを見上げる。
「あの窓の中に、私の居場所がある」
そして、風は言った。
「もし、よかったら、もう1日お願いできないか」
「授業があるので、休日なら」
「ありがたい。土曜か日曜に来てもらえたら、休める」
「そうですよね。先生、お疲れのようですから」
日曜日の林の家を手に入れた。
土曜にしなかったのは、待ち遠しい気持ちを持たせたかったから。
(明日になれば、解放される)
金曜日の安堵、土曜日の翹望、日曜日の依拠。
美しい流れだ。
日曜日に風は、私とあの子が庭にいる間寝室で寝ていた。
私の前でもソファで眠ることもあった。
少し深く眠っていた。
昼はデリバリーで済ませた。
子どもは、嫌いなものを床に投げた。
「だめだよ」と拾いにいく風の声には力がない。
もう1度「だめだよ」と言って、あの指で頬を触る。
あー!!!子どもは叫ぶ。
私は知ってる。
風、その子は触られるのが嫌な子なの。
でも、それは教えてあげない。
風は、ただ悲しい顔をしながらウェットティッシュで床の汚れを落とす。
風は、ただ、一生懸命に姉の子を育てている。
でもね。
あの子に合っていないのよ。
林の家に児童相談所から連絡が来た。
「幼い子が毎夜泣いている」と通報があったと。
風は、愕然としていた。
誰も自分が頑張っていることなんて見ていない。
そう。
風、あなたの一生懸命がわかるのは私だけ。
大丈夫、私がちゃんとわかっているから。
そして、また私は児童相談所に電話をした。
「幼い子が一晩中泣いています」と。




