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天下人の甘露

 むかしむかし、三河(みかわ)の国に、神谷権兵衛(かみやごんべえ)という男がおりました。権兵衛はとにかくお酒を(つく)るのが上手で、近所でも評判の腕前でした。それだけでなく、権兵衛は国をよく治める徳川家康公を深く(うやま)い、いつも遠くからその御威徳(ごいとく)(した)っておりました。

 

 ある日のこと、家康公が権兵衛の住む村へ立ち寄ることになりました。

「よし、日頃の感謝を込めて、わしの一番自信のある酒を差し上げよう!」

 権兵衛が心を込めて造った酒を献上(けんじょう)すると、家康公は一口飲んで目を丸くしました。

「うまい! これはまるで、寿命が延びるような味わいじゃ!」

 家康公は大喜び。それからというもの、権兵衛は家康公お抱えの特別な酒造(さけづ)り役として取り立てられたのでした。

 

 それからしばらく経った元亀元年(げんきがんねん)のこと。家康公が三河を離れ、遠江(とおとうみ)浜松城(はままつじょう)へとお(うつ)りになることになりました。これを知った権兵衛は、少しも迷いませんでした。

殿(との)について行こう。新天地(しんてんち)の風は冷たかろう。わしの酒で、殿のお心を温めるのだ」

 権兵衛はすぐさま荷をまとめ、殿のあとを追いました。三河から浜松へと続く峻険(しゅんけん)な山道を歩いていた時のことです。ふと足元を見れば、雪の下で青々とした葉を(たた)え、冬を(しの)ぐ強い草が目に留まりました。

「おや、これは忍冬(にんどう)ではないか。古くから(やまい)退(しりぞ)ける霊草(れいそう)と聞くが……」

 権兵衛の頭に、稲妻のような(ひらめ)きが走りました。

「これだ。ただ(うま)いだけでなく、殿の御身(おんみ)(すこ)やかに(たも)つ、格別(かくべつ)薬酒(やくしゅ)を献上しよう」

 浜松は成子(なるこ)の地に腰を落ち着けた権兵衛は、昼夜を問わず薬酒の仕込みに明け暮れました。


 月日は流れ、天正(てんしょう)の世。ついに、琥珀(こはく)色に輝き、とろりと甘露(かんろ)のごとき究極の酒が完成したのです。権兵衛がさっそく城へ持参すると、家康公は権兵衛を近くへ呼び寄せ、自ら(さかずき)を手に取りました。

「殿様、会心の一献(いっこん)がようやく仕上がりました。ぜひご賞味(しょうみ)ください」

 家康公は一口飲むと、その美味さに驚き、体にじわじわと元気がみなぎるのを感じました。

「権兵衛、見事な腕前じゃ。これからも欠かさず城へ納めるがよい」

 大満足した家康公は、この酒を浜松の特別な名産品にしようと心に決めました。殿様のお墨付(すみつ)きをいただいた権兵衛の家業(かぎょう)は、それからというもの、ますます繁盛(はんじょう)していったのです。

 

 やがて(いくさ)が終わり、泰平(たいへい)()(おとず)れても、このお酒は「忍冬酒(にんどうしゅ)」と呼ばれ、お城のお祝い事があるたびに、全国から集まる大名(だいみょう)たちに振る舞われました。

「江戸と浜松には、飲むと元気が出る天下一の甘い酒があるぞ」

 噂はあっという間に日本中に広がり、忍冬酒は江戸の世を通じ、末長く多くの人々に愛され続けたのでした。


このお話は、浜松に実在した「忍冬酒」の由来を元にした昔ばなしです。

 

 物語の主役である「忍冬スイカズラ」は、六月(6月4日、6月17日、6月22日、6月30日など)の誕生花です。ちょうどこの季節、野山では甘い香りを漂わせながら白や黄色の花が咲き誇ります。薬草として古くから人々の健康を支えてきたこの花は、厳しい冬を耐え抜くことから「忍冬」の名がついたと言われています。

 

 家康公に愛された忍冬酒は、時代の流れとともに廃れかけましたが、現代の酒蔵の熱意によって見事に復活を遂げました。現在、この伝統は静岡県浜松市と愛知県犬山市の二つの地で、大切に守り伝えられています。


 六月の風に吹かれながら、かつて権兵衛が殿様のために心血を注いだ琥珀色の輝きに思いを馳せていただければ幸いです。

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