水鏡の姫と山の神
本作は屋久島に伝わる「山姫」の伝承を独自の解釈で再構築した創作昔話です。作中の語源や由来はフィクションであり、実在の歴史や伝承とは異なります。
神代の昔、屋久の島には「山の神」と、麓の清流を守る水の神である「水姫」がいた。二人は、深い霧の中でのみ逢うことを許された恋仲であった。
しかし、天孫降臨ののち、掖玖人が住み着き始める。掖玖の「掖」は、山から溢れ出す清らかな「水の湧き」を意味し、人々はその恩恵を受けて暮らしていた。
ところが、ある年、凄まじい干魃が島を襲った。里の川は干上がり、人々は生き延びるため、「神の領域」である山へと踏み入った。里の水は尽きたが、山の奥にはいまだ尽きぬ水脈があると、古くから伝えられていた。ゆえに水なくしては生きられぬか弱き者たちは、山の神が隠し持つ「命の源泉」を求めたのである。
水姫は、恋人である山の神を守るため、自らを盾として人間たちの前に立ちはだかった。人々は顔を見合わせ、ためらい、ある者は涙をこぼした。それでもなお、生きるためには退くことができなかった。
「水を……水をくだされば、無体な真似はいたしませぬ……」
しかし、枯れ果てた彼女には、水を操る力はもはや残されていなかった。
「お許しくだされ……お許しくだされ……」
かくして、切迫した者のひとりが、ついに刃を振り下ろした。彼女の流した血は、干上がった川床へと吸い込まれていった。水姫が倒れ、その流れが絶えたことで、山の神もまた力を失い、病に伏していた。
島の命運が尽きようとしたその時、病に伏していた山の神は最期の力を振り絞った。
「私がこの島の大地となろう。私の肉体は肥えた土に、骨は峻険な岩に、魂は深き木々に宿らせ、未来永劫、この島を枯らしてはならぬ」
山の神は自ら命を解き放ち、島全体を抱く広大な生命の礎となった。その瞬間に噴き出した凄まじい緑こそ、現在の屋久島の深い森の始まりである。
息絶えゆく水姫に、山の神は最期の言葉を残した。
「泣いてはならぬ。お前が泣けば天候が荒れ、この島に生きる者たちが再び苦しむことになる。だから、どうか笑っていなさい」
それは神の愛ゆえの言葉であったが、同時に彼女を縛る呪いともなった。愛する者を失った悲しみは消えぬまま、「泣いてはならぬ」という戒めに従い、水姫は引きつった笑みを浮かべ続ける「山姫」へと変じた。
しかし、神といえど悲しみを抑えきることはできない。彼女がこらえきれず涙をこぼす時、島には激しい嵐が吹き荒れ、天候は狂い、海は荒れる。そして、かつて愛した人間たちによって奪われた「神の命」を埋めるかのように、彼女は今も彷徨いながら、旅人の血を求めてその渇きを癒そうとするのである。
屋久島の原生林がこれほどまでに力強く瑞々しいのは、山の神が自らを捧げた大地のぬくもりゆえである。そして、この島に雨が多いのは、山姫が今もどこかで、笑いながら泣いているためかもしれない。島の人々はこの出来事を忘れず、山と水を畏れ敬う戒めとして語り継いできたという。




