第9話 三年前の演説について
招聘状が届いたのは、ベルタニアの報告書が評議会に届いてから十日後だった。
封筒の宛名は「辺境薬師 リゼット・ヴェルテール 殿」と書いてあった。
ヴェルテール令嬢ではなく、薬師、という呼ばれ方をするのが初めてだった。
開封した。医薬評議会から正式に評議会委員への招聘、と書いてあった。
「……来ましたね」
カイルが宿屋の食堂の入り口から言った。
「来ましたね」
「どうしますか」
「少し考えます」
封筒をたたんで、試薬棚の上に置いた。考える前に、まず王都の話を聞く必要があった。
◇◇◇
その日の午後、商人が珍しく急ぎ足でやってきた。
「お嬢さん、王都がえらいことになってるよ」
食堂に腰を下ろしながら言った。
「どういうことですか」
「貴族院で三年前の演説の話が出てて、なんか、あれって実はヴェルテール令嬢が書いたんじゃないかって議論になってるんだって。証拠書類も出てきたって話で」
公証人から、評議会を経由して貴族院へ。ルートはわからないが、動いた。
「殿下がなんか弁明しようとしたらしいんだけど、言えば言うほどひどくなったって……ロードン侯爵が支援縮小を表明したとか」
「そうですか」
「お嬢さん、本当にこれあなたの話じゃないの」
「ヴェルテールという苗字は、そこそこいますので」
商人は信じていない顔をしたが、それ以上は聞いてこなかった。
◇◇◇
夜、薬草園に出た。
春告げ草がそろそろ芽吹く時期で、土の匂いが変わっていた。冬の間ずっとそこにあった硬さが、少しほどけていた。
カイルがついてきた。聞いていないのについてきた。
ラヴェンドラの列を確認しながら歩いていると、カイルが言った。
「少し話してもいいですか」
「どうぞ」
しばらく沈黙があった。
カイルは言葉を出す前に、いつも間を置く。選んでいるのか、整えているのか、それとも出し方がわからないのか、判断できない間だ。
「三年前の演説が誰の言葉だったか」
言葉が止まった。
「……知っていました」
指先が動かなくなった。ラヴェンドラの葉を確認しかけていた手が、そのまま止まった。
「医療院の再建演説です。あの草案の下書きを、わたしは一度だけ目にしたことがあります。王子の机の上に、護衛で部屋に入ったとき」
「……それは」
「何も言いませんでした。近衛騎士は護衛対象の業務内容を外部に証言することが、規則上できません。機密保持の義務があります。言えなかった、というより、言う方法がなかった」
「三年間」
「三年間です」
言葉が出なかった。
なぜ今。三年間。なぜ今それを。問おうとしたが、問いの形が定まる前に、声が消えた。
見ていた人がいた。
言えなかったのには、理由があった。
三年間、理由があって、黙っていた人がいた。
指先が微かに震えていることに、しばらく気づかなかった。葉の感触で気づいた。
◇◇◇
「薬草名を呟く癖は、なぜですか」
カイルが聞いた。
「……癖です」
「最初の頃から、整理するときに声に出していた」
「前世から続く習慣で、何かを確認するとき、声に出さないと手が動きません」
「前世」
「少し変わった話になりますが」
「構いません」
「転生者です。前の世界では別の仕事をしていました。データの管理が主な業務で、確認作業は声に出しながらやる習慣がありました。それがこの世界でも続いています」
カイルはしばらく黙っていた。
「整理しながら生きている人だ、と思っていました」
「……思っていたのですか」
「最初から」
それだけだった。
整理しながら生きている。それが自分の見え方か、と思った。――いや、そういうことではないか。整理しながら生きていることを、この人はずっと見ていたということだ。
「それから」
カイルが続けた。
「ベアトリスの孫が回復したとき、あなたが目をそらしたのを見ていました。薬草の質が良かっただけです、と言った」
「……見ていたのですか」
「見ていました。あのとき、あなたが嬉しいのに嬉しいという言葉を持っていないように見えた」
違う、と言おうとした。
言えなかった。
三年前の草案の第三章。王都の外れの貧民街への薬代支援。削除された章に込めた意図が、形を変えて、フォルデン村の八歳の子供に届いた。
言葉にできなかったのは、そういうことだったかもしれない。嬉しい、という感情名詞が届かなかったのではなく、届きすぎていたのかもしれない。
指先の震えが、もう少し大きくなった。耳の後ろが、ひやりとした。
「……リゼットと呼んでいいですか」
カイルが言った。
ラヴェンドラの列の前で、春の土の匂いの中で。
答えようとした。
喉の奥で、また声が詰まった。




