第10話 辞表は撤回しません
朝、薬草園に春告げ草が咲いていた。
一晩で咲いた。昨日はまだ芽だったのに、今朝は小さな白い花がいくつか開いていた。
しばらく見ていた。べつに何をするわけでもなく、ただ見ていた。
「返事は」
カイルが後ろから言った。
「昨日の夜からずっと待っていたのですか」
「いいえ」
「では、今朝から」
「いいえ。今、聞こうと思いました」
それはそうか、と思った。
「リゼットと呼んでいいですよ」
「……ありがとうございます」
「お礼を言われるとは思いませんでした」
「俺も思いませんでした」
◇◇◇
評議会への返答を書いた。
招聘を受諾する、と書いた。
条件として、フォルデン村での活動を継続する権限を保持すること、という一文を添えた。評議会の仕事と辺境の仕事を並行したい。それがわたしの希望だった。
封をしながら、三年前のことを考えた。
断罪の日、謁見の間を出たとき、ここまで来ることは考えていなかった。辺境で静かに薬草を育てて、小さなポーションを作って、誰の名前でもなく生きる。それだけを考えていた。
それは変わっていない。ただ、「誰の名前でもなく」が「自分の名前で」に変わっていた。
同じことだが、まったく違う。
◇◇◇
昼過ぎ、父から手紙が届いた。
フォルデン村への配達は月に一度しか来ないので、書いてから届くまで一ヶ月以上かかっていた。
開封すると、短い文章だった。
「辺境の薬師の名を、王都で聞いた。誇りに思う。フランシス」
たった二文だった。
試薬棚を確認していた手が、止まった。
ありがとうございます、と言おうとした。声は出なかった。出せなかった、ではなく、出す相手が手紙の向こうにいた。
羊皮紙を折りたたんで、試薬棚の端に立てかけた。
◇◇◇
午後、カイルが薬草の束を持って帰ってきた。
「今日は何ですか」
受け取る前に聞いた。もう学んだ。先に確認する。
「……ラヴェンドラ草、のはずです」
「のはず、というのは」
「紫色の、葉が細い草です」
「合っています」
「本当に」
「今回は合っています」
受け取った。本当に、ラヴェンドラ草だった。前回より株が大きく、葉の張り方が良かった。良い場所で採ってきたのだろう。
「ドーヴィル様、採取の場所を覚えてきましたね」
「護衛の仕事です」
「それは、薬草採取の場所を覚えることも、護衛に含まれるということですか」
「……護衛対象に必要なものを理解することが、護衛です」
少し言い直した。
前より少しだけ、説明が長くなった。気のせいかもしれなかった。気のせいではないかもしれなかった。
◇◇◇
夕方、薬草を整理していると、カイルがまた入り口に立った。
今度は薬草ではなく、何も持っていなかった。
「護衛の任務を、継続したいと思っています」
「評議会の仕事も続きますので、護衛が必要な場面は増えると思います」
「それだけでなく」
間があった。
「……それだけでなく?」
「護衛対象の、隣にいたい、ということです」
これまでと違う言い方だった。護衛の仕事です、という逃げ場がなかった。
「あの」
「はい」
「それは、求婚のことですか」
「……そういうことに、なります」
「なります、というのは、なのかそうでないのか、どちらですか」
「……そうです」
ようやく言った。
「わかりました」
「……わかりました、というのは」
「辞表は撤回しません」
カイルが黙った。
「ただ、新しい仕事を受けることにしました。よろしくお願いします」
少しの間があった。
長い間ではなかった。カイルが理解するのに必要なぶんだけの、間だった。
「……よろしくお願いします」
今度の「よろしくお願いします」は、これまでのどの短文とも違う重さを持っていた。
◇◇◇
翌朝、評議会委員として国際医療会議に出席するという通達が届いた。
王都のアーレンシュタットで、春の会議が開かれる。アルフレッド殿下も同じ場に出席する予定だと書いてあった。
三年前、わたしは彼の隣で草案を書いていた。
今度は、別の場所に立つ。
同じ場所に、別の立場で。それだけのことだ。
薬草園の春告げ草が、昨日より少し増えていた。白い花が、朝の光を受けていた。
「これは何という草ですか」
カイルが一本の細い草を持ってきた。
「……猛毒です」
「そうか」
「ドーヴィル様、また銀葉草を」
「……気づかなかった」
「何度目ですか」
「覚えていません」
「覚えてください」
「努力します」
努力します、という言葉が珍しかった。いつもは「わかりました」か「承知しました」だった。
「……笑いましたよね」
「いいえ」
「笑いました」
「……俺は笑いません」
「笑っていましたよ、目が」
カイルは返事をしなかった。
わたしは銀葉草を安全な場所に置いて、ラヴェンドラの列を確認し始めた。ラヴェンドラ、ミルトゥース、フォルカン、と声に出しながら。
カイルが横を歩いた。
春の土の匂いがした。昨日より、少し温かかった。




