第6話 薬草の名前を呟く理由
朝、行商人が来た。
いつも月に二回、峠を越えてフォルデン村に立ち寄る人だった。荷馬車から干し魚と布地を下ろしながら、宿の前に立っているわたしを見つけて、頭を下げた。
「お嬢さん、ちょっといいですか」
「どうぞ」
「王都の方で、こっちのことを悪く言う噂が出てるみたいでして」
荷を下ろす手を休めずに続けた。
「フォルデン村で怪しい薬を売ってる、って話です。出所は……まあ、貴族の方から聞こえてきた話ですよ。そういうことになると、うちもその薬を仕入れるのは難しくなるといいますか」
「わかりました」
「いや、お嬢さんのものが良いのは知ってるんですよ。ただ、こっちにも立場がありまして」
「ええ。ご事情はわかります」
行商人は申し訳なさそうな顔をして、荷馬車を引いていった。
残った。
静かに。
◇◇◇
「お嬢さん、お嬢さん」
声がして振り返ると、ベアトリスが薬草の束を持って歩いてきた。朝露がまだ残っている葉をそのまま束ねた、摘みたての状態だった。
「孫が、助かったよ」
それだけ言って、束を差し出した。
ありがとう、と言おうとした。
声が出なかった。
なぜ、と思った。なぜ出ない。四文字だ。それだけのはずなのに。喉の手前まで来て、そこで止まって、形を失った。ありがとうございます、という四文字が。なぜ。
「……薬草の、質が良かったので」
目をそらしながら言った。自分でも何を言っているのかわからなかった。
ベアトリスは笑った。前歯が一本欠けている、皺の集まる笑い方で。
「そうかい」
それだけ言って、束をわたしの手に押しつけ、帰っていった。
手の中に薬草の重さがあった。朝露が少し湿って、指先に残った。
カイルが、少し離れたところから見ていた。こちらを見ていたが、何も言わなかった。
◇◇◇
昼前、ロードン侯爵の使いが再び来た。
今度は昨日とは別の人間だった。穏やかな口調だった。
「書類をお返しいただければ、昨日申し上げた件については不問にいたします」
「不問とは」
「反逆罪の疑い、という点においてです」
取引の提案だった。証拠書類を返す。そうすれば追及しない。
ポーション販売への影響も、おそらく収まる。行商人も戻ってくる。辺境の生活が、静かに続く。
合理的な選択肢だと思う。
「お断りします」
「……よろしいのですか。閣下は本気で」
「わたしが作ったものを、わたしが持っている。それだけのことです」
使いが表情を変えた。説得の余地を探している顔だった。
「お嬢さん。辺境の村の方々に迷惑が及ぶことにもなりかねません。それでも」
「迷惑をかけているのは、わたしではありません」
そこで口を止めた。言いすぎたかもしれなかった。いや、言いすぎではない。事実を言っただけだ。
使いは一礼して、今度は昨日より早く引き上げた。
◇◇◇
夜になった。
試薬瓶を並べながら、今日という日を整理しようとした。うまくいかなかった。頭の中で一番大きな場所を取っているのが、老婆の「孫が、助かったよ」という一言で、それが邪魔をして他のことが入らない。
「俺が採ってきた薬草も、今日のポーションに入っていたか」
カイルが言った。
宿の入り口に腰を下ろして、外を見ていた。こちらを向かずに言った。
「……入っていましたよ」
「そうか」
「フォルカン草が含まれています。昨日採ったものです」
「そうか」
それだけだった。
何が言いたかったのかは、わからなかった。入っていたことを確認したかっただけかもしれない。それとも何か別の意味があったのかもしれない。
ただ、言われてみると、その薬草は確かに入っていた。
カイルが道を知っていたから採れた場所の草が、ベアトリスの孫に届いた。
そういうことでもある。
「……役に立ちましたよ」
言いながら、自分でも少し驚いた。そういう言い方をするつもりはなかった。
カイルは振り返らなかった。外の暗闇を見たまま、少しの間があった。
「……そうか」
今度の「そうか」は、微妙に音が違った気がした。
気がしただけかもしれない。
試薬瓶を棚に戻した。ラヴェンドラ、ミルトゥース、フォルカン。声に出しながら整理した。気づいたら、声に出していた。
カイルは何も言わなかった。外を見ていた。
その沈黙が、なんというか、うるさくなかった。




