第5話 証拠は3箇所に分散してあります
ロードン侯爵の使いが来たのは、フォルデン村に着いて十六日目の朝だった。
宿屋の扉を叩いたのは、三十代の男だった。侯爵家の紋章が入った外套を着ていた。王都から急使で四日。どこかで足取りを掴んでいたのだろう。
「ヴェルテール子爵令嬢、ロードン侯爵閣下よりの伝言をお持ちしました」
「どうぞ」
「断罪の場でご提出された書類について、原本をお返しいただきたいとのことです」
わたしは手元の試薬瓶を棚に戻した。それから使いの人間を見た。
「写しです」
「は?」
「わたしが先日お渡ししたものは、写しです。原本は昨年から段階的に、王都の公証人三名に預けております。書類の性格上、分散して保管しておくのが適切と判断しました」
前世の習慣だ。重要なデータは三箇所にバックアップする。クラウドと外付けと社内サーバー。この世界で使えるものに置き換えれば、公証人が三名分になった。
使いが表情を変えた。
「……閣下は、その行為が王家への反逆罪に問われる可能性もあると、仰せです」
「そうですか」
「本当によろしいのですか」
◇◇◇
「護衛対象への脅迫は、わたしが阻止します」
カイルが宿の入り口から言った。
いつからそこにいたのかはわからなかった。気配がない人なので、あったとしても気づかなかっただろう。
使いが振り返り、騎士の格好を見て、顔が少し強ばった。
「これは護衛対象への業務的な申し入れです。脅迫ではありません」
「脅迫という言葉を使われたのは、そちらの方です」
短い沈黙があった。
使いは一礼し、外に出た。馬の蹄の音がして、遠ざかっていった。
扉が閉まった。
わたしは棚に向き直り、試薬瓶の配置を直した。倒れかけていたものを立て直す作業をしながら、手が少し動作を誤っていることに気づいた。
「ありがとうございます」
「護衛の仕事です」
「……あなたは王命で動いているのでしょう。本当にわたしの側についていていいのですか」
「王命ではありません」
振り返った。カイルが扉の前に立ったまま言った。
「副長代理の権限で申告しました、と最初に言いました」
「聞いていましたが、あなた個人の判断で来ているということは……つまり、なぜ来たのか、ということに繋がります」
カイルが少し間を置いた。
「それは、また別の話です」
また別の話、という言い方が、なんというか、逃げているのか誠実なのか判断がつかなかった。おそらく両方だ。
◇◇◇
夕方に、ベアトリスの孫がポーションを飲んで熱が下がったと聞いた。
老婆が直接来たのではなく、村の子供づてに教えてもらった話だった。
それだけのことなのに、試薬瓶を並べる手が、しばらく止まった。
なんでもない、とわたしは思った。試薬が作用しただけだ。それがポーションというものの定義だから、定義通りに機能した、それだけのことだ。
でも、効いた。
具体的な誰かに。
その「具体的な誰か」が、顔も知らない八歳の子供だということが、妙に頭の中で動かなかった。
◇◇◇
その夜、王都から噂が届いた。商人の伝言ではなく、侯爵家の使いと同じ宿に泊まった旅人が持ってきた話だった。
「悪役令嬢が逃亡中も宮廷を攪乱している、という話が王都で広まってるよ」
旅人は興味深そうに言った。
「そうですか」
「証拠書類を隠匿して、貴族院を混乱させようとしているとかなんとか。お嬢さん、もしかして関係ある人?」
「いいえ」
「そっくりだけどねえ」
旅人は笑って、食堂の奥に引っ込んだ。
隠匿している、という言い方が引っかかった。
三年間かけて作った記録を、公証人という正規の手段で保管している。証拠を残すことと、証拠を隠すことは、まったく違う。しかし、使う言葉を変えれば、同じように聞こえる。
フレーミングの問題だ。前世の会社でも、同じことをした上司がいた。
上顎の奥が、じんと重くなった。
カイルが隣のテーブルで、黙って黒パンを食べていた。
「噂が広まると、ポーションの販売にも影響しますね」
わたしが言うと、カイルは一度手を止めた。
「対処できますか」
「……考えます」
「手伝えることがあれば言ってください」
それだけ言って、また食べ始めた。
対処、という言葉が頭の中に残った。隠れ続けることと、対処することは、別の選択肢だ。今夜は決められなかった。
でも、どちらかを選ぶ必要があることは、分かった。




