第2話 護衛任務、とおっしゃいますが
翌朝、馬車に乗ろうとしたら、人が立っていた。
宿の門の前に、昨日の廊下で見た近衛騎士がいた。灰色のマントをまとい、馬の手綱を持ち、表情のない顔でこちらを見ていた。
「おはようございます」
わたしが言うと、相手はわずかに頭を下げた。
「護衛任務です」
「……王命ですか」
短い間があった。
「副長代理の権限で申告しました」
つまり、あなた個人の判断で来ている、ということか。
「規則違反にはなりませんか」
「ならない範囲でやっています」
それ以上の説明はなかった。馬の鼻先が一度動いた。
わたしはしばらく考えた。考えても答えは出なかったので、考えるのをやめた。
「……わかりました。ただし、フォルデン峠に向かいますので」
「知っています」
「馬車では峠の手前までしか行けませんので」
「知っています」
「峠を越えた先はフォルデン村まで徒歩ですので」
「知っています」
三回同じ答えが返ってきた。
知っている、という言葉が、なんというか、やたらと重かった。どこで調べたのかは聞かなかった。聞いても教えてもらえない気がしたし、聞かなくてもおそらくどうでもよかった。
「では、出発します」
わたしは馬車に乗った。騎士は馬に乗った。
◇◇◇
王都を出て半日が経つと、風景が変わり始めた。
石畳が土道になり、建物が減り、空が広くなる。前世の感覚で言えば都心から郊外へ、そして郊外から田舎へ移行するときの変化に似ていた。
「何か必要なものはありますか」
向こうから声をかけてきたのは、昼過ぎだった。
「羊皮紙と、乾燥ラヴェンドラ草があれば助かります」
「……わかりました」
わかったのかどうか怪しかったが、黙って受け入れた。
馬車の窓から外を見ると、騎士が馬上から周囲を見回している。護衛の動作だ。視線の動き方が均一で、感情がない。何かを探している目というより、何もないことを確認し続けている目だった。
王都ではどんな噂が立っているだろう、とぼんやり考えた。
断罪の場で業務報告書を出した令嬢の話は、廷臣の口から外へ出るだろう。今頃、廊下でも広間でも小声の会話が交わされているはずだ。エリナが「あれはでたらめだ」と言い張っているのも、おそらく続いている。
どちらでもよかった。証拠は公証人の手にある。わたしの手を離れたものは、もうわたしの仕事ではない。
そういう考え方を、前世の会社で身につけた。引き継ぎを終えたら、あとは受け取った側の問題だ。
マニュアルは書棚の二段目に入れてきた。
読まれないだろうとは思っていた。独自の体系で書いたから、外から見ても何の資料かわからないはずだ。それでも残した。それがわたしにできる、最低限のことだったから。
◇◇◇
夕方、峠の入り口が見えてきた。
「……ここから先は馬車が通れません」
「知っています」
また同じ言葉だった。
騎士は馬から降り、手綱を馬車の御者に預けた。荷物を担いで、当然のように歩き始める準備をしていた。
「徒歩になりますが」
「護衛任務です」
それだけ言って、前を向いた。
わたしは馬車から降りた。荷物は試薬瓶と羊皮紙と着替えで、それほど重くなかった。峠道の入り口に立つと、山の空気が違った。王都の匂いがない。冬の草と、乾いた土と、どこかで燃やした何かの煙。
「名前を聞いても構いませんか」
「カイル・ドーヴィルです」
振り返らずに答えた。
「リゼット・ヴェルテールです」
「知っています」
また知っていた。
そうか、と思った。何を知っていて何を知らないのかが、わからない人だった。
◇◇◇
峠道は思ったより急だった。
カイルが少し前を歩いた。わたしより足が速いのに、速度を落としていた。落としていることを気づかれないようにしながら、落としていた。
気づいていたが、言わなかった。言うと止まりそうだった。
「辺境の仕事は、王都と違いますか」
話しかけてみたのは、沈黙が続きすぎたからだ。というより、沈黙自体は別に苦ではなかった。ただ、ぼんやりと気になった。この人は三年間、王子の横に立って何を見ていたのか。
「……空気が違います」
少しの間があってから、そう答えた。
「辺境の空気、ということですか」
「どちらの空気も、という意味です」
それだけ言って、また前を向いた。
どちらの空気も、という言葉を、しばらく持て余した。王都の空気と、ここの空気と、両方が違う、ということか。いや、違う。あの人が言いたかったのは、そういうことではない気がした。何かを比較した言い方ではなく、何かを確認した言い方だった。
うまく言葉にできなかった。
石段を踏むたびに、靴底が砂利を鳴らした。日が山に沈みかけていた。フォルデン村まで、あと半日。
わたしは歩き続けた。カイルも歩き続けた。
話はそれきりになったが、不思議と静かな道だった。




