第3話 それは猛毒ですよ、ドーヴィル様
フォルデン村に着いたのは翌日の昼前だった。
峠を越えると空が広くなった。王都では建物に切り取られていた空が、ここでは端まで全部見えた。ラヴェンドラ草の紫と、乾いた土の茶色と、冬の手前の草の枯れた色。
宿屋は一軒だけあった。年季の入った板張りの建物で、扉を開けると干し魚の匂いがした。主人に部屋を取り、荷物を置いた。
翌朝、薬草園を持つ農家を探した。
村の外れに、ベアトリスという老婆が住んでいた。前歯が一本欠けていて、笑うと顔中に皺が集まった。広い薬草園を管理しながら一人で暮らしていた。
「見学させてもらえますか」とわたしが聞くと、「ちょっと待ちな」と言って、軒下から大きな犬を追い払ってから「どうぞ」と言った。
◇◇◇
薬草園を歩いていると、カイルが「手伝います」と言った。
言葉が短くて意図が読みにくい人だったが、この場合の「手伝います」は、おそらく文字通りの意味だった。薬草を採ってくる、ということだろう。
「では、ラヴェンドラ草を。紫色の、これくらいの背丈の――」
「わかりました」
説明の途中で言われた。わかっていないかもしれないな、と思ったが、止める理由もなかった。
しばらくして、カイルが戻ってきた。
白い花の束を持っていた。
「……ドーヴィル様」
「採ってきました」
「それは猛毒ですよ」
間があった。
「……そうですか」
「銀葉草という草です。触れるだけなら問題ありませんが、煎じると神経毒になります。お怪我はないですか」
「ありません」
「それは良かったです」
カイルは白い花の束を地面に置いた。視線を少しだけ横に動かし、何かを確認するような様子だったが、何を確認したのかはわからなかった。固まっているということだけがわかった。
笑いたかったが、こらえた。
というより、なんというか、笑っていいのかどうかの判断がつかなかった。いや、判断の問題ではなく、笑うタイミングを見失っただけだ。
「覚えておくといい草の名前をお伝えしましょうか」
「……頼みます」
「ラヴェンドラ草、ミルトゥース、フォルカン草、それからこれが銀葉草です」
言いながら、棚に並べ始めた。気づいたら声に出していた。
「ずっとそれを言ってますね」
カイルが言った。
「え」
「薬草の名前を。さっきから、ずっと」
言われて初めて気づいた。声に出していたらしい。前世から続く習慣で、何かを整理するとき口が勝手に動く。データの整理も、在庫管理も、いつも声に出しながらやっていた。
「……癖です。気になりましたか」
「いえ」
短い答えだった。気になったから言った気もするが、気にならなかったから言っただけかもしれない。判断できなかった。
◇◇◇
その夜、初めてポーションの試作に成功した。
ラヴェンドラ草の解熱成分とミルトゥースの鎮痛成分を、低温で時間をかけて抽出し合わせる方法だ。前世の漢方の知識と、記憶の中にある薬草書の内容をかけ合わせると、理論上はうまくいくはずだった。
理論上と実際はよく違う。
それが今夜は一致した。
試薬瓶の中で、淡く青みがかった液体が安定した色に落ち着くのを見た。温度計の数字が目標値を保ち続けた。指で少量を取り、舌先でそっと確かめる。苦みと甘みのバランスが整っていた。
悪くない。いや、悪くない、どころではない。
胸の中で何かが動いたが、それを言葉にしようとすると形が消えた。
翌朝、試薬瓶を光にかざした。
確かめるように。もう一度だけ。
淡い青がそこにあった。揺れなかった。安定していた。
それだけのことだ、とわたしは思った。
◇◇◇
その日の夕方、商人の荷馬車が通りがかって、王都の話を置いていった。
文官たちが「薬価統一案の後継をどう進めるか」で紛糾しているらしい。引き継いだ資料の意味が分からず、誰が何を担当するかで混乱が続いているという話だった。
「お嬢さん、知り合いの話かい」
商人が笑いながら言った。
「いいえ」
わたしは首を横に振った。
嘘ではなかった。三年間いた場所だが、もうあそこに知り合いはいない。いたとしても、わたしの仕事ではない。
引き継ぎは終わっている。読んでもらえなかったとしても、それはわたしのせいではない。
カイルが宿の軒先に立って、夕日の方向を見ていた。何を見ているのかはわからなかった。ただ、その横顔は、別のことを考えているというより、何も考えていない、という顔だった。
「猛毒ではない草を、また採ってきましょうか」
振り返らずに言われた。
「……明日教えます。今夜は休んでください」
「承知しました」
カイルは宿の中に入っていった。
わたしは夕日を少しのあいだ眺めた。
フォルデン村の夕日は、王都より長く残る気がした。空が広いから、時間があるように見えるだけかもしれない。
いや、そうでもないか。ここでは時間そのものの流れ方が違う。王都の時間はいつも誰かに消費されていたが、ここの時間は今のところ、まだわたしのものだ。
明日も薬草を整理する。
それだけが、今夜の予定だった。




