第1話 辞表の代わりに業務報告書を提出いたします
謁見の間は、いつでも寒い。
石造りの床から冷えが這い上がってくる。それは冬の話だけではなかった。リゼット・ヴェルテールは三年間、この場所に立つたびに、そう感じてきた。
今日で最後になる。
「ヴェルテール子爵令嬢リゼットを、ここに断罪する」
アルフレッド殿下の声が高い天井で反響した。整った顔立ちが、正義を語るときの表情をしていた。二十二年かけて磨き上げた、見栄えのいい顔つきだ。いや、表情ではなく、弁舌を磨いたのだ。演説の中身はいつも別の誰かが用意していた。
侍女たちが息を呑む気配がある。エリナが唇を噛んで、涙をこらえた顔でこちらを見ていた。
(来た来た。待ってました。)
胸の中でそう呟いた瞬間、前世の記憶が滑り込んできた。
IT企業の、三月の金曜日。上司の机の前に辞表を置いたときの、あの静かな軽さ。
構造がまったく同じだ。細部が違うだけで。
「第一の罪。殿下の御前にて、不敬な振る舞いを繰り返したこと。第二の罪。同僚の侍女に嫌がらせを行い、心身に害を及ぼしたこと。第三の罪――」
文官が読み上げていく。三年分の濡れ衣を、よくもここまで並べたものだと思う。褒めてはいない。
わたしは膝の前で重ねていた手を、静かに胸もとへ移動させた。
懐から書類の束を取り出す。
百六十ページ。三年分の業務記録、草案の下書き、外交書簡の控え、会議の議事録。前世の習慣でこまめにバックアップしてきた証拠の全量だ。
文官の声が止まった。
アルフレッド殿下が、わたしの手の中のものを見た。
「……それは何だ」
「業務報告書でございます」
一歩前に出た。
「殿下が先月の国政会議でご発表された薬価統一案の草案は、わたしの調査メモ第十七ページから四十三ページを基にしております。一昨年の外交書簡の下訳は八十ページ以降に。三年前の医療院再建の基本方針については、第百二ページの草稿をご確認いただければ、筆跡の照合も可能です」
◇◇◇
しん、と静まり返った。
「でたらめです」
エリナが声を上げた。震えていた。
「あの書類はでたらめです。リゼット様はずっと、わたくしのことを――」
「ご意見はごもっともです」
向き直った。
「ですので、原本はすでに公証人に預けてあります。昨年より段階的に。殿下の法務顧問を通じてご確認いただけますが、なにしろ百六十ページございますので、お時間はかかるかもしれません」
廷臣の誰かが、ひとつ咳払いをした。
それがきっかけのように、あちこちで微細な動きが起きる。ざわめきではない。静寂の種類が変わる、という感じだ。
この報告書、わたし以外に書ける方はいらっしゃいますか。
声には出さなかった。胸の中だけで言った。
アルフレッド殿下は、何も言わなかった。
エリナが「殿下、あの書類は――」と続けようとした。殿下はそちらを見なかった。
「……失礼いたします」
わたしはお辞儀をして、後ろを向いた。
謁見の間の扉まで、三十二歩。一度だけ数えたことがある。今日は数えなかった。それだけの余裕が、体の中に戻ってきていた。
扉が閉まった。
廊下の冷気が頬に触れた瞬間、喉の奥でひとつ息を吐いた。
「……退職完了」
◇◇◇
廊下の角で、人とすれ違った。
灰色のマントをまとった、近衛騎士だった。背が高く、動き方が均一で静かな人。謁見の間の護衛に何度か配置されていた顔だったが、名前は知らなかった。
目が合った。
向こうは何も言わなかった。わたしも言わなかった。
ただ、その人の視線が、わたしの手の中の書類の束を、一瞬だけ追った。
追った、という表現がおそらく正確だ。視線がそこへ引かれ、それからわたしの顔に戻ってきた。何かを確かめるような、短い動作。
なんというか――意味がわからなかった。
判断できないまま、わたしはそのまま歩き続けた。
◇◇◇
その夜、実家には帰らなかった。
父への手紙を書くのに、ずいぶん時間がかかった。辺境のフォルデン村へ向かうこと。ポーション開発をやってみたいこと。詳しい事情はのちほど説明すること。
書きながら、頭の中で別のことを整理していた。
薬価統一案の第三章。王都の西の外れ、商人も立ち寄らない区画の住民への薬代支援案。二年前、殿下が「現実的でない」と一言で削除したあの章を、わたしはまだ手元に持っている。
使い道があるかどうかはわからない。というより、使い道など最初から関係なかった。削除したのは殿下で、書いたのはわたしだ。それだけのことだ。
もうひとつ。
なぜ自分から婚約解消を申し出なかったのか、と、たまに問われた。主に自分自身から。
答えは制度の話だ。この国では令嬢側から婚約解消を申し出ると、相手家への慰謝料と持参金相当の賠償が生じる。ヴェルテール家の財産の半分が消える。父は笑って「構わない」と言うだろう。でもわたしには言えなかった。
だから向こうから動いてくれるのを、待っていた。三年間。
……結果的には、良かった。
ペンを置いて、羊皮紙の束をまとめた。
窓の外で風が鳴っていた。冬薔薇の匂いがした。王都の匂いだ。明日になれば、しばらく嗅がなくて済む。
明日の朝、フォルデン峠に向けて出発する。
手の中に残った書類の感触が、まだあった。百六十ページ分の重さ。三年分の記録。
これはわたしのものだ。
それだけが、今夜はっきりしたことだった。




