435 命を懸けた約束
血飛沫が舞う中、ドイツのプレイヤーたちは猛獣に追われるように螺旋階段を駆け下りていた。
「攻め込むか!?」
雨間刻はドイツのプレイヤーたちの陣形が大きく乱れたのを見て、急いで尋ねた。
「よせ!」
火野良は両手を震わせながら革命軍を率いて数十メートル後退し、ドイツのプレイヤーたちが逃げ込める場所を空けた。
「どうして今の隙に攻めないの!?」
加奈は攻め時を逃すことを恐れ、苛立たしげに問い詰めた。
「突っ込んだら命はない……まずは様子を見よう」
火野良は獣と化したクトゥルフを指さし、震える声で答えた。
「第一審・清浄なる霊!」ルースはクトゥルフを指さして怒鳴った。
クトゥルフの体にまとわりついていた血の蔦がすべて消えた。それでもクトゥルフは気にも留めず、自らルースの審判池へと踏み込み、敵の群れの中に血路を切り開いた。
「ルース!!!!」
ドン! ドイツ軍の前衛たちが一斉に押し寄せ、大盾を構えて狂犬のようなクトゥルフの突進を食い止めた。
ドゴン! クトゥルフは大槌の一撃で一人を昏倒させた。残る前衛たちは一斉に魂鎖を使ってクトゥルフを縛り上げ、ルースへ近づくのを阻んだ。
クトゥルフがもがき始める。魂の鎖はきつく張り詰め、チャリンチャリンと音を立てた——バキン!
「何!?」
前衛たちは目を疑った。クトゥルフが肉体の力だけで魂の鎖を引きちぎったのだ。
「早く攻撃しろ!」将校が急かした。
槍の突き、刀の斬撃、矢、炎、雷、呪い——無数のスキルが一斉にクトゥルフを襲い、血飛沫が四方に弾けた!
あの日、闘技場で雄姿を見せていた闘牛士は、今や野牛と化していた。切れ目を入れたイカのように、全身に幾筋もの刀傷が刻まれ、血が泉のように噴き出していた。
ドイツ軍の前衛の一人が機を捉え、大刀を横薙ぎに振るった——ザシュッ。クトゥルフは右脚をすっぱりと断ち切られ、その場で血溜まりに膝をついた。
「早く武器を取り上げろ!」
前衛たちは誰もが恐れるスマイルマークの大槌を即座に蹴り飛ばし、クトゥルフの関節という関節を固めた。いくら怪力でも、これでは身動き一つ取れない。
ルースはようやく安心してクトゥルフの前に歩み寄り、蔑む目で見下ろした。
「甘いな! 私がお前に何の備えもしていないと思ったか? この狂人め」
「猫娘……」
死の淵にいるクトゥルフが思い浮かべたのは、かつての戦友たちではなく、本サーバーで偶然出会った少女だった。
記憶が花畑へと戻る。不意に花の香りが鼻をくすぐり、地面に腹ばいになった、顔中泥だらけの寧々がぼんやりと見えた。寧々は七面鳥を抱え、誕生日のケーキを手にしたかのような幸せそうな笑顔を浮かべている。その笑顔は恵みの雫となって、枯れ果てたクトゥルフの魂を潤し、再び命を吹き込んだ。
「注意:このメールアドレスはすでに使用停止されています」
───クトゥルフが寧々に千字にも及ぶ説明を送った際、返ってきたのはこの通知だった。
「プレイヤー・クトゥルフ。お前は反乱罪を犯した。ただちに死刑を執行する!」
ルースは十字架を掲げ、クトゥルフの整った顔に狙いを定めた。
チリンチリンチリンチリンチリンチリンチリンチリンチリンチリンチリンチリンチリンチリンチリンチリン~
クトゥルフは地面に強く押さえつけられ、もがくこともできなかった。周囲のドイツのプレイヤーたちは、異形の怪物でも見るような嫌悪に満ちた目でクトゥルフを見つめていた。そこには一片の憐れみもなかった。
「ごめん……寧々……」
クトゥルフは最後に目を閉じた。寧々と仲間たちに誓った、必ず勝つという約束を守れないことは、もうわかっていた。
ルースが十字架を両手で突き下ろそうとした、その瞬間――
「危ない、ルース総統!!!!!!」
黒い投げ槍が宙を切り裂き、ドイツのプレイヤー数人を貫いた。そのままルースの手を十字架に縫い止め、狙いを逸らした。
ガン! 十字架がクトゥルフの顔のすぐ脇の地面に突き刺さった。
【Warnung: Die HP des Gildenmitglieds XXXXX sind auf 0 % gefallen.】
【Warnung: Die HP des Gildenmitglieds XXXXX sind auf 0 % gefallen.】
黒い投げ槍が宙を切り裂いた——バン!!! ドイツのプレイヤー数人を貫き、さらにルースの分厚い手を十字架に縫い止めた。
「くっ……忌々しい猿め!」
負傷したルースは恐怖に駆られて階段を10段駆け上がり、司教に治療させた。
「見事な一投だ」
火野良は雨間刻の肩を叩き、大股で前へ進み出て声を張り上げた。
「クトゥルフ、仲間にどんな戦いでも必ず勝つと約束したんだろう!? ザコどもに囲まれて殺されるなんて、俺は認めないぞ!」
「……」敵に囲まれたクトゥルフは、火野良を呆然と見つめた。
「気をつけろ!」ドイツのプレイヤーたちが驚いて叫んだ。
ドン、ドン、ドン! 火野良が投げ放った赤、白、黒の3本の大剣がクトゥルフの周囲に突き刺さり、ドイツのプレイヤーたちを追い払った。
「あの時は俺の金の剣を2本も折ってくれたな。今日は3本貸してやる。利子をつけて返せよ!」
「まずい、早く殺せ!」将校が焦って叫んだ。
ドイツ軍の陣中に、突如炎の輪が現れた——ゴオッ!
クトゥルフが赤い剣を荒々しく振り回し、その軌跡が空中に血の雲を描いた。それにかすめられたドイツのプレイヤーたちは、たちまち頭や顔を焼かれ、我先にと逃げ出した。
ルースは目を見張った。クトゥルフが再びスキルを使い、失った右脚を血の蔦で補っていた。
「まさか!?」
ルースは前にいた衛兵を押しのけて見た——火野良の3本の剣が、ちょうどクトゥルフの周囲の聖句を砕き、その光を失わせていた。
「うわあ!!!!!!」ドイツ兵の一人が血の蔦に引かれ、クトゥルフの目前へと引きずり出された。
クトゥルフは鋭い牙の並ぶ血まみれの口を再び開き、一噛みで相手の喉を食い破ると、筋力値を奪い取った。
「火野良……お前は、私を仲間として……」
クトゥルフの目に、遠くから自分を見上げる火野良の姿が映った。火野良はクトゥルフに、信頼に満ちた笑顔を向けていた。
ドン! クトゥルフが強く足を踏み鳴らすと、地面は一瞬でひび割れ、さらにいくつもの聖句が効力を失った。
「約束したんだ……この戦い、必ず勝つと!」
クトゥルフは大剣を振るって近くの敵を追い払い、野ウサギのようにさっと前へ飛び出して大槌を拾い上げた。
「くそっ! 不浄の——」
ルースが聖句を叩こうとしたが、クトゥルフの大槌のほうが早かった。ドゴン! 5つの聖句が砕け散った。
「第一審・清浄────」
ルースが別の聖句を叩こうとした時も、クトゥルフのほうが早かった。ドン! ドン! ドン! ドン! ドン! ドン! ドン! ドン! モグラ叩きさながら地面をめった打ちにして、周囲の聖句をすべて砕いていく。
「間に合わない、早くあいつの動きを鈍らせろ!」
ドイツ軍の魔法使いたちは即座に足止めの魔法で反撃した。クトゥルフはたった一人、100人の敵の中を、凍てつく吹雪を浴びながら突き進んだ。
「寧々……見てるか!?」
クトゥルフは大槌を腰の後ろへ引いて力を溜め、ばねのように一気に腰を振り戻した!
ドゴォン! クトゥルフは審判池の3分の1を打ち砕き、ルースを壁際まで追い詰めた!
「ルース!!」クトゥルフは大槌を振り上げ、渾身の力で振り抜いた!
バキィッ!! ルースの左半身がクトゥルフの一撃で叩き潰され、血肉が飛び散った。黄金色の脂肪が宙に舞う。
「ぐああ!!」
ルースは壁に深くめり込み、身動きが取れなくなった!
周囲のドイツのプレイヤーたちは驚愕したが、助けに出る勇気はなかった。
クトゥルフは、しぼんだ風船のようなルースへゆっくりと歩み寄った。大槌は、その丸々と太った顔を叩き潰すのを待ちきれないかのようだった。
ルースは右腕を素早く伸ばし、クトゥルフの首筋に注射針を突き立てた。クトゥルフがその腕を払いのけたときには、すでに中の液体は押し込まれていた。
だが、ルースは嘲るように笑い始めた。
「クトゥルフ、前にも言っただろう。私がお前への備えを何もしていないとでも思ったか?」
ルースは邪悪な笑みを浮かべ、手にした空の注射器を掲げた。
クトゥルフは突然、体に鈍い痛みとしびれを感じた。首に膿の詰まった大きな腫れ物ができていることに気づき、愕然とした。
次の瞬間、クトゥルフは息が苦しくなり、視界がすっかりかすんだ。
「これはヴェッカー大将が作った腐血の針だ。ファラオの屍虫3匹分の毒を精製して使っている。お前はもう長くは生きられんぞ」
ルースは高笑いした。
クトゥルフは突然目の前が真っ暗になり、ドサッと倒れた。
...
「ふん、愚か者め!」
ルースは右手を傷口に当て、潰れた左半身を治していった。傷が塞がると、息も絶え絶えのクトゥルフの胸元をつかみ、地面へ仰向けに押さえつけた。
クトゥルフの並外れた体力を知るルースは、自力で回復されないよう、十字架を拾い上げて再びクトゥルフに狙いを定めた——
突然、ルースの後頭部がむずがゆくなった。手を伸ばして探ると、ぬめる管が1本、吸い付いていた!
パンパンパンパンパン——クトゥルフの体から突如、何本もの血管が噴き出し、ルースに吸い付いた。ルースは驚いて叫ぼうとしたが、口はすでに血の蔦で塞がれていた。
ほかのドイツ兵たちは、クトゥルフを中心に、膨れ上がって脈打つ血の蔦が地面を覆い尽くしているのを見て、近寄れずにいた。クトゥルフ自身は身じろぎ一つせず、ただ静かに横たわっていた。
ルースは血の蔦から逃れようと、狂ったように体をよじった。だが、1本引きちぎるたびに、切れ口から3本の細い糸が伸びてくる。たちまち両手を絡め取られた。その時、突然胸に痛みが走り、手足がしびれた。明らかに毒の症状だった。
「なぜ……どうして私が毒に……」
ルースは周囲を見回し、愕然とした。クトゥルフと自分の右手をつなぐ血の蔦は墨のように黒く、左手につながる蔦は花のように鮮やかな赤だった—————
「ごほっ……ごほっ!」
クトゥルフはげぼっと大量の黒い毒血を吐き出した。呼吸が落ち着き始めている。
「まずい! こいつ、私と血を入れ替えている……」
ルースは目の前が暗くなり、視界がぐるぐると回り出した。慌てて壁に背を押しつけ、崩れ落ちそうになる体をどうにか支えた。
「約束した……この戦い……必ず勝つ……」
クトゥルフは血溜まりの中からゆっくりと立ち上がり、口元を吊り上げて背筋が凍るような笑みを浮かべた。




