401 至高の敬意
「立ち上がらせるものか!!」火野良は羊頭大槌へ持ち替え、地面に倒れたクトゥルフめがけて叩き下ろした!
バシバシバシッ! 何本もの触手が突然火野良に絡みつき、地面へ引き倒してきつく縛り上げた。
「な……何だ!?」火野良は目を見開いた。
クトゥルフは体を震わせながらゆっくりと起き上がり、口元の暗赤色の血を拭って笑った。
「いい……雄牛だ……」
「この血は人間のものじゃない……まさか!?」
火野良が鉄馬から跳び上がった隙に、クトゥルフは触手を倒れたグリフォンへ伸ばし、その血を吸い尽くしていたのだ。
地面に縛られた火野良は大きく息を吐いた。クトゥルフのほうが一枚上手だったと悟り、正面からの勝負では完敗だと認めざるを得なかった。
「Toréador, en garde ! Toréador ! Toréador !」ドイツサーバーのプレイヤーたちが声を揃えて歌った!
クトゥルフは火野良の周囲を回りながら観客の喝采を浴び、深々と一礼した。
「いい子だ。ゲームは終わりだ」
クトゥルフは笑いながら火野良の腹の上にしゃがみ込み、牙の隙間から大量の唾液を垂らした。
「ふん……なかなか強いじゃないか。残念だったな。お前のギルドメンバーは、勝利の瞬間を見届けられない」火野良は嘲笑した。
クトゥルフははっとした。
火野良は泣きも命乞いもせず、逆にクトゥルフを挑発したのだ。
「なぜわかる?」クトゥルフが尋ねた。
「さっき口にした名前……あれは、お前が失った仲間の名じゃないのか? 全員が戦死したから、お前はそいつらの意志を背負って戦っている――違うか?仮面をつけても、目までは隠せない。その目は……俺にはわかる――心が死んだ人間の目だ!」火野良は鼻で笑った。
クトゥルフは口を閉じ、火野良をじっと見つめた。
その瞬間、闘技場が暗闇に包まれた――
「どういうことでしょう!? クトゥルフが初めて『戦場の霧』を発動しました!」司会者が驚きの声を上げた。
「お前には……俺の目がわかるのか?」
クトゥルフは突然、氷のような冷静さを取り戻した。
「俺たちのサーバーは、お前たちにズタズタにされた。俺も一時期、鏡の中に同じ目を見ていた。だが、俺は立ち直り、ドイツ人プレイヤーの支配下で生きていけるよう、積極的にギルドを率いてきた」
火野良は作り笑いを浮かべながら、心の中で触手が消えるまでの時間を数えていた。
クトゥルフは考え込み、焦点の定まらない目で闘技場を覆う闇を見上げた。
「正解は……半分だけだ」
「あと三秒……」火野良は全身に力を込め始めた!
「人間の本性は……こんなにも醜い」
クトゥルフは静かにうつむき、両目を再び暗い赤に染めた。
火野良は一瞬、動きを止めた。
ブチィッ――クトゥルフが火野良の喉笛に噛みつき、一口で引き裂いた。
喉からあふれた血が気管へ流れ込み、火野良は息を詰まらせて喘いだ。
「休んでいる間も……ギルドメンバーを気にかけていたな。あいつらは幸せだ」
クトゥルフは噛みちぎった肉を吐き出し、深いため息をついた。
触手が消えると、火野良はすぐに喉を押さえてもがいた。しかし、血はすでに肺へ流れ込み、胸の内側が焼けるように痛んだ。
「一つ……秘密を教えてやる」
クトゥルフは、脚をばたつかせてもがく火野良のそばにしゃがみ込んだ。
「人を食らったあと……そいつの力まで手に入る快感が……どうしてもやめられないんだ!」クトゥルフは異様な笑みを浮かべた。
火野良は体を起こして血を吐き、力なくクトゥルフの悲哀の仮面を指さした。
クトゥルフは一瞬固まった。火野良は気づいていたのだ。クトゥルフが笑顔の仮面をつけて戦いながら、人を食うときだけ悲哀の仮面をつけ、その後に狂気へ陥ることを。
「なら、ふさわしい敬意を払おう……」クトゥルフはそう言って、ゆっくりと口を開いた……。
「いったい何が起きているんだ!?」観客たちが騒ぎ始めた。
ようやく闘技場を覆っていた戦場の霧が消えた。
そこに残っていたのは……全身を血に染めたクトゥルフと、原形をとどめない肉塊だけだった。本サーバー最強の戦士、火野良の姿はどこにもなかった。
...
空を埋め尽くす雪が、ムー大陸の各地へ降り注いでいた。
ムー大陸は静まり返っていた。
人影は以前にも増してまばらで、大通りからはすっかり喧騒が消えていた。
「柑々様、ルース元首がまたお呼びです」ドクトンが扉を開けて入ってきた。
「出ていって……」柑々は机に突っ伏したまま、力なく言った。
「すでに何度もお断りになっていますが――」ドクトンが眉をひそめた。
「出ていってよ!!」柑々は突然立ち上がって絶叫した。その手には、すでに幻音の魔杖が握られていた!
柑々の様子から何かを察したドクトンは、黙って扉を閉めた。
柑々は生気を失ったまま椅子に崩れ落ち、力なくドイツサーバーの新聞を持ち上げた。
「最強の戦神――火野良の末路」
紙面にはそう書かれ、その下には闘技場に残された肉塊の写真が大きく掲載されていた。
柑々は鼻の奥がつんと痛み、新聞を丸めて胸元に握り締めると、うつむいて泣き崩れた。
...
影の旅団の新たな避難所――
「白! これを見ろ!!」雨間刻は入口を覆う草をかき分け、ドイツ人プレイヤーの宣伝ビラを手に駆け込んだ。
「知ってる……」白は眉をひそめ、椅子に座ったままため息をついた。
「おい!!! 火野良が……火野良が……」雨間刻は突然すすり泣き、それ以上言葉を続けられなかった。
全員がうつむいた。> 洞窟の中は、針が落ちる音さえ聞こえそうなほど静まり返っていた。
「影の旅団は……一度は壊滅したも同然だった」メンバー全員が白のそばへ集まり、じっと耳を傾けた。
「それでも火野良は、影の旅団を立て直すために、ずっと鍛え続けてきた。私たちを親友のように大切にし、戦場では的確に指揮を執り、勇敢に戦ってきた。このゲームで、あの人以上にギルマスにふさわしい人は二度と現れないと断言できる! みんなもそう思うでしょ!?」白が声を張り上げた。
全員がうなずいた。
「だったら……今度は私たちが迎えに行きましょう!」白はテーブルを強く叩き、プラムスの地図を広げた。
「どういうことだ!?」メンバー全員が驚いた。
「火野良は教皇都市の近くにある教会で復活した直後、ドイツ人プレイヤーに捕まった。今はプラムスの牢獄、その三階に閉じ込められてる」キティが答えた。
「どうして知ってるんだ?」雨間刻が驚いて尋ねた。
「火野良とはメールアドレスを交換してるって……何度言えばわかるの?」キティは苛立たしげに答えた。
「火野良はずっと影の旅団のために身を犠牲にしてきた。今度は……影の旅団があの人のために犠牲を払える?」白が厳しい目で尋ねた。
しかし、メンバーたちは黙り込んだ。あまりにも予想外の反応に、白は自分の目を疑った。
「一度くらい、自分を犠牲にすることもできないの!?」白が怒鳴った。
「火野良はギルドのためにしんがりを務めたんだ。俺たちまで死にに行ったら、あいつの犠牲が無駄になるだろ」一人が言うと、何人かも同意するようにうなずいた。
「ふざけないで! 現実で、何もかも投げ打って思い切り勝負できる機会が、いったい何度あるの!? これこそ仲間同士の絆でしょ!」白は地図が破れそうなほど、テーブルを強く叩いた。
「私が行く」キティが手を挙げた。
「キ……キティ」白はすぐに迷いを見せた。火野良が牢獄へ入れられたのは、ほかでもないキティを救ったからだ……。
「借りを残したままにしておくのは嫌なの」キティは笑った。
「俺も行く」雨間刻が意を決して言った。
「駄目……私かあなたのどちらかは残らないと。ギルドを絶やさないために」白はきっぱりと拒んだ。
「何人くらい必要だと思ってる?」マイロが尋ねた。
「十人以下ね。多すぎると目立ってしまう」白は真剣な表情で答えた。
「それなら十分よ……」キティが笑った。
「どういう意味?」白は驚いて尋ねた。
「Kanatheonの加奈のメールアドレスを知ってるのよ」キティは腰に手を当て、得意げに言った。
白の顔がぱっと明るくなった。これなら、どうにか十人ほどは揃えられる。
「それなら……じっくり作戦を練りましょう……」
ほかのメンバーたちはそれぞれ持ち場へ戻り、白、雨間刻、キティ、マイロだけが狭い横穴に残って柑々の地図を囲んだ。
...
相手を食らうことが……最高の敬意だというのか?




