400 闘牛士よ、戦え!
約束された残り二十分が過ぎ、闘技場に再開を告げる鐘が鳴った。
「戦いが再開されました! 皆様お待ちかねの――」司会者がすかさず声を張り上げた。
ドゴォン!!!
クトゥルフは正面から先手を取り、笑顔が描かれた大槌を火野良めがけて振り下ろした。
その速さは火野良の読みを完全に上回っていた。間一髪で大剣を構えて防いだものの、体ごと数十メートルも吹き飛ばされた。
「おや、おかしいですね! どうしてクトゥルフは相手をいたぶらないのでしょう!? いつもとまるで違います!」司会者が驚きの声を上げ、ドイツサーバーのプレイヤーたちも目を疑った。
先ほどクトゥルフが会話音声をミュートにしたため、観客には二人の会話が聞こえていなかった。数百人の観客は何が起きているのか理解できず、困惑していた。
火野良は砂地から起き上がり、口に入った砂を吐き出した。
「あり得ない……この速さと力は……」
両腕がかすかに痺れていた。大剣には笑顔の跡がくっきりと刻まれ、刀身もわずかに曲がっている。
クトゥルフが一直線に突進し、その背後に砂塵の嵐が巻き起こった!
速度では追いつけないと悟った火野良はすぐに戦い方を変え、腰を落として大剣を構え、動かずに迎え撃った!
クトゥルフは目の前まで迫ったかと思うと、ふっと姿を消した!
火野良は視界の端で、クトゥルフの黒い影が小さくなるのを捉えた――跳んだのだ!
「うおおおっ!!」火野良は雄叫びを上げ、全力で大剣を振り上げた!
ドゴォン――
足元の地面が陥没し、クトゥルフの大槌と火野良の大剣が激しくぶつかり合った!
クトゥルフはすぐに武器を双爪へ持ち替え、一瞬で火野良の背後へ回り込むと、凄まじい勢いで突きを繰り出した。
火野良は大剣を振り回してクトゥルフを追い払い、二本の片手剣へ持ち替えて激しい突きの応酬を始めた。
闘技場では無数の刃が閃き、金属が砕ける音が絶え間なく響いた。
ドイツサーバーのプレイヤーたちは最高峰の激闘に目を奪われ、司会者ですら口を挟む隙がなかった。
キィン、と鋭い音が響き、クトゥルフの双爪は先端が平らになるほど削られていた。火野良の二本の片手剣にも、いくつもの亀裂が走っている。
二人は示し合わせたように飛び退き、武器を替えて再びぶつかり合った!
今度はクトゥルフが、巨大な直定規を思わせる大剣を取り出し、火野良は二本の羊頭大槌を構えた。
クトゥルフの力は剣圧だけでも相手を傷つけるほど強く、火野良はまともに受けず、何歩も後退した。
クトゥルフは戦うほど勢いを増し、その大剣による突きも加速していった。しかし、そのぶん踏み込みは次第に深くなっていく。
その瞬間、火野良が足を止めた。
ずっと待っていた、クトゥルフの重心が前へ傾く瞬間が、ついに訪れたのだ!
「はあっ!」火野良は右手の羊頭大槌を振り抜き、ガァンという音とともにクトゥルフの大剣を弾き飛ばした。
クトゥルフも、火野良が片腕だけで自分の武器を弾き飛ばすとは思っていなかった。慌てて後ろへ退こうとした、その瞬間――
ドゴォン!
火野良の左手の大槌がクトゥルフの右脇腹を直撃し、その体を百メートルも吹き飛ばして壁へ叩きつけた。
「うおおっ!!」闘技場中から驚きの声が上がった。
クトゥルフの右腰に、骨盤が砕けたかと思うほどの激痛が走った。
そのとき、闘技場が暗闇に包まれた。巨大な羊の頭が空を覆い隠していた。
「絶対君臨」
ズドォォン!!!
闘技場を覆う砂地全体が生き物のように跳ね上がり、地面には巨大な穴が開いた。
「クトゥルフは……どこですか!?」司会者が驚いて叫んだ。
クトゥルフは渦巻く砂塵の中から這い出してきた。右脚全体が火野良の一撃で押し潰されている。
傷口から肉の芽が盛り上がり、筋肉と骨を形作り始めた。クトゥルフは火野良の硬直時間を利用して傷を治そうとしていた。
だが――顔に突風が叩きつけられ、大剣が地面を擦るザザザッという音が猛烈な勢いで迫ってきた。
クトゥルフが顔を上げると、巨大な影が視界を覆った!
ザシュッ!
硬直が解けた火野良はグリフォンを召喚し、その背へ飛び乗ると、大剣を振るってクトゥルフの胸を斬り裂いた。
ドイツサーバーのプレイヤーたちはさらに熱狂し、次々と火野良の名を叫び始めた!
「火野良! 火野良! 火野良! 火野良! 火野良! 火野良! 火野良!」
会場中の熱狂に包まれたような感覚だった。火野良は、大歓声が人をどれほど酔わせるのかを身をもって知った。
手綱を引いて振り返ると、全身を血に染めたクトゥルフが震えながら地面から起き上がっていた。
クトゥルフはゆっくりと振り返った。胸と右脚には、すでに肉の蔓が絡みついている。
クトゥルフは笑顔の仮面に手をかけ、そのまま投げ捨てた。悲哀の仮面をつけて戦いに臨んだ。
「悲哀の仮面が出ました!!」司会者が叫んだ。
クトゥルフのHPが回復するのを待つわけにはいかない。火野良はグリフォンとともに空高く舞い上がり、そのまま急降下した!
「悪魔の触手」
クトゥルフが両拳を地面へ突き立てると、黄色い砂が一瞬で黒く染まり、石柱ほども太い触手が何本も噴き出してグリフォンを阻んだ。
グリフォンは何本もの触手を突き破ったものの、クトゥルフまであと十数メートルというところで、ついに動きを止められた。
火野良は慌てて大剣を振るい、自分とグリフォンに絡みつく触手を斬り落とした。
不意に背後へ重みがかかった。クトゥルフがすでに火野良の後ろへ飛び乗っていたのだ。
火野良はすぐさま大剣を後ろへ突き出したが、クトゥルフの背中からさらに八本の赤黒い触手が噴き出し、その体をきつく縛り上げた!
食師に捕まれば無事では済まない。火野良は全力でもがき、何本もの触手を引き裂いた。あと一歩で抜け出せる、その瞬間――クトゥルフが大口を開けて噛みついた。
「ぐあああっ!!!」何十本もの牙が火野良の右肩へ突き刺さった。
火野良は激痛に雄叫びを上げ、怒りに任せてクトゥルフの顔面へ拳を叩き込み、グリフォンの背から殴り落とした。
クトゥルフは地面を数十メートルも転がった。やがてゆっくりと起き上がり、口元の血を拭うと――笑った。
クトゥルフの本物の笑みは、仮面に描かれた偽物の笑顔よりもはるかに不気味だった。まるで白塗りの邪教徒が百人、蝋燭を手にこちらへ微笑みかけているような恐ろしさだった。魂の奥底に潜む邪悪が、そのまま顔に浮かび上がっている。
グリフォンが触手を振りほどくと、火野良は急いで距離を取り、クトゥルフの実力を改めて見極めた。
「力は俺と互角……。体力は俺より上……。敏捷性は遥かに上……。触手のスキルは知力で威力が増す……。いったい……こいつは何人食ったんだ!?」
悲哀の仮面の下から覗く、血のように鮮やかな口元の笑みを見た瞬間、火野良の闘志が初めて恐怖に揺らいだ。
...
「ヒャハハハハッ!!!!!!!」
バキィッ――
グリフォンは間一髪で翼を上げ、クトゥルフの大槌を防いだ。だが、その一撃で翼の骨が折れた。
グリフォンは甲高い悲鳴を上げ、本能のまま後ろ脚で立ち上がった。巨体で相手を威嚇しようとしたが、逆に柔らかな腹をクトゥルフへさらしてしまった。
クトゥルフは大笑いすると、血に染まった口を大きく開け、グリフォンへ襲いかかった。
グリフォンを失えば、自分の勝ち目はさらに薄くなる。そう悟った火野良は迷わず飛び降り、大剣を握り締めてクトゥルフへ真上から突き立てた!
だが、クトゥルフは避けようともせず、顔を上げて大きく口を開き、笑いながら火野良の大剣を迎えた。
その両目はすでに不吉な朱色へ変わっていた。火野良は、自分がクトゥルフの内側に押し殺されていた何かを目覚めさせたのだと悟った。
ガァン!!!
クトゥルフは火野良の金色の大剣を口だけで噛み止め、そのまま火野良ごと持ち上げた!
金色の大剣は岩盤に突き刺さったかのようにびくともせず、火野良が力を振り絞っても抜けず、さらに押し込むこともできなかった。
火野良は大剣を手放し、グリフォンへ飛び乗ってクトゥルフから離れた。
クトゥルフは金色の大剣をつかむと、力任せに投げつけた。ズブッという音とともに、大剣がグリフォンの脇腹へ突き刺さった。
グリフォンは悲鳴を上げ、さらに二歩だけ走ると倒れ込み、そのまま立ち上がれなくなった。
火野良はすぐさま鉄馬を召喚し、戦いを続けた。
クトゥルフは武器を投げ捨て、両腕を広げて火野良を迎えた!
「くたばれ、この変態が!!」火野良は大型騎槍を構え、突進した――
その瞬間、赤い布が視界を遮り、ドイツサーバーのプレイヤーたちから大歓声が上がった。
火野良は反撃を警戒し、慌てて頭を低くした。
だが不思議なことに、ダメージはまったく受けていなかった。
闘技場に軽快な管弦楽が流れ始め、重厚なバリトンの歌声が重なった。同時に、闘技場は一瞬で歌劇場へと姿を変えた。
「Toréador, en garde ! Toréador ! Toréador !(闘牛士よ、戦え! 闘牛士! 闘牛士!)」
クトゥルフは胸を張って腹を引き締め、赤い布を手に高らかに歌い上げた。
会場には雷鳴のような拍手が響き渡り、ドイツサーバーのプレイヤーたちは何度も喝采を送った。
「さすがクトゥルフ! 皆様のために『闘牛士の歌』まで用意していました! さあ、思う存分お楽しみください!」司会者が叫んだ。
「闘牛士よ、戦え!」千人の観客が楽しげに大合唱した。
ドイツ人プレイヤーたちの勇ましい歌声が四方八方から火野良の耳へ押し寄せ、集中を乱していく。
クトゥルフは大笑いしながら赤い布を揺らし、火野良を挑発した。
火野良はようやく理解した――自分こそが、これから殺される雄牛なのだ。
観客たちは歓喜の歌声に酔いしれ、火野良とクトゥルフが流す血を見世物にして楽しんでいた。
「闘牛士よ、戦え!」クトゥルフは大笑いしながら歌った。
「ふざけるなああっ!!!」火野良は激怒し、騎槍を脇に抱えて固定すると、鉄馬を全速力でクトゥルフへ走らせた!
「闘牛士!」クトゥルフは雄叫びを上げ、赤い布を翻した。
クトゥルフは赤い布とともに数歩横へ滑るようにかわし、火野良の騎槍はまたも空を切った。
「ハハハハハッ!!!」観客たちがどっと笑った。
火野良は鉄馬の手綱を引き、再び向きを変えて突進した!
今度はわざと狙いを少しずらした……それでも当たらなかった!
クトゥルフはますます調子に乗り、波のように優雅に赤い布を翻した。さらに赤い薔薇を出して口にくわえ、艶めいた眼差しで火野良を挑発した。
闘牛士の歌の効果により、火野良の攻撃力は10%低下していた。効果が切れるまで、あと6分。
「耐えろ!! 耐えるんだ!!」火野良は歯茎から血が出るほど強く歯を食いしばり、必死に怒りを押し殺した。
「モー! モー!」クトゥルフは両手を角のように頭へ添え、子供のようにあちこちへ突進した。
火野良はようやく気づいた。クトゥルフは、戦いの中でしか感情を表せない人間なのだ。
クトゥルフが唇を舐めた。その仕草を見て、火野良は相手の敏捷性が自分を遥かに上回り、次も噛みつかれるに違いないと悟った。だが、効果が切れるまで耐えられるだけのスタミナは残っていない。弱体化したまま、次の一撃に賭けるしかなかった。
「俺がもっと速ければ……今度こそ、この一撃は必ず届く! 来い!!」
火野良は両手持ちの巨槍を抜き、背後に激しい風を巻き起こしながらクトゥルフへ突進した。赤い布の向こうには、クトゥルフの体の輪郭がかすかに浮かんでいる!
「もらった!」火野良が雄叫びを上げた!
ドスッ!
巨槍の穂先が、コンクリートのように硬い何かへ突き刺さった。
赤い布がひらりと落ちた――クトゥルフは両手を伸ばして巨槍を受け止めたが、両前腕はずたずたに引き裂かれていた。
「なんて危険な……雄牛だ……」クトゥルフは口から血を流しながら笑った。
「これならかわせないだろ!!」火野良は鉄馬の背から飛び出し、片手剣を抜いてクトゥルフへ斬りかかった!
クトゥルフがどれほど強くても、ゲームの仕様を無視することはできない。
ザシュッ――
火野良はクトゥルフの胸に長い傷を刻んだ。傷口は骨が見えるほど深く、心臓が脈打つ音さえ耳に届いた。
「闘牛士よ……戦え……」クトゥルフは口の端を吊り上げて笑い、その場に倒れた。
闘技場が静まり返った。
雄牛が……闘牛士に勝った!?
...




