390 思わぬ敵
栞は暗い地下道で何度も同じ場所を回り、長い時間をかけてようやく地上へ戻った。
すでに日は暮れていた。指定時刻をとっくに過ぎていることは、栞にも分かっていた。
耳を澄ませても何の物音もしない。栞は素早く地上へ飛び出し、小屋の陰へ身を隠した。
「大聖堂はどっち!?」栞は慌てて周囲を見回した。大聖堂は現在地の南にあったが、教皇都市の出口はさらに南端にあるはずだった。
ほかに選択肢はない。栞は静まり返った大通りへ忍び込み、崩れかけた小屋を遮蔽物にしながら進んだ。
そのとき――骨と皮だけに見えるほど痩せ細った、馬ほどの大きさの屍犬が、前方の大通りを横切った。
口には鋭い牙がびっしりと並び、四肢には凶悪な鉤爪が生えている。捕まれば、栞は間違いなく死ぬ。
栞は壁の角に身を伏せ、屍犬が遠ざかるのを待った。
ところが突然、屍犬が鼻をひくつかせ、ゆっくりと振り返った。
栞は驚き、物陰を伝って三軒先まで後退した。
屍犬から栞の姿は見えず、栞も音を立てていない。だとすれば……。
栞は鏃で髪を一房切り落とし、その場で手を離した。予想どおり、夜風は屍犬のいる方向へ吹いている――匂いを嗅ぎつけられたのだ。
屍犬はゆっくりと向きを変え、栞が隠れていた角へ歩き始めた。匂いが濃くなるにつれ、その足取りも速くなっていく。
屍犬は匂いを追って小屋の奥へ入り、脱ぎ捨てられた革鎧を見つけると、すぐさま飛びかかって引き裂き始めた。
栞は最も匂いが染みついた革鎧を脱ぎ、囮として残していた。今や下着姿となった栞は、その間に街中を駆け抜けていた。
苦労の末に大聖堂の正門まで戻り、仕方なく衛兵に助けを求めようとした。しかし、衛兵はすでに撤収しており、教皇都市には誰一人残っていなかった。
「最悪!」栞は見学ツアーに参加したことを激しく後悔した。
ノクシアも男剣士もログインしていない。栞は自力で生き延び、教皇都市から脱出するしかなかった。
さらに一頭の屍犬を避け、屋敷街へ忍び込んだ。
栞は廃屋の中に大勢の子猫が隠れているのを見つけた。子猫たちも、通りを巡回する屍犬から身を隠しているらしい。
匂いさえ残さなければ、屍犬には見つからない。
栞が立ち去ろうとすると、子猫が革靴に前足をかけ、餌をねだるように鳴き始めた。
栞は慌てて静かにさせようとしたが、子猫たちはますます大きな声で鳴き、二頭の屍犬に気づかれてしまった。
バウッ! バウバウッ!
「お願い! 静かにして!!」栞の目には焦りの涙が浮かんだ。
栞では屍犬に勝てず、走って逃げ切ることもできない。追いつかれれば、確実に殺される。
屍犬はすでに廃屋の外を取り囲み、匂いを探して嗅ぎ回っていた。木の壁の隙間から、荒い鼻息と喉の唸り声がかすかに聞こえてくる。
「ごめん……私を恨まないで」
栞は眉をひそめ、二匹の茶色い子猫を掴むと、大通りへ放り投げた。
驚いた子猫たちが激しく鳴き叫び、その声を聞いた屍犬が駆け寄ってくる。
直後、大通りから肉が潰れ、手足が引きちぎられる音が響いた。
栞はすぐに窓から飛び出し、花畑へ向かって全力で駆けた。
南大門はもう遠くに見えている。栞は屍犬が追ってきていないか、慌てて後ろを振り返った――そこには大槌を手にし、全身を血に染めたプレイヤーが立っていた。遠くから栞を見つめ、不気味な笑みを浮かべている。
栞は肝を潰し、必死に速度を上げた――ドンッ!
突然、何者かが横から飛びかかり、栞を地面へ押し倒して力任せに押さえつけた。
「放して! 助けて――!」栞が甲高い悲鳴を上げた瞬間、口を塞がれた。
「静かにして! 助けに来たの!」女プレイヤーが焦った声で告げた。
女プレイヤーが本サーバーの言葉を話していると分かり、栞はようやく安心して口を閉じた。
そこで栞は、女プレイヤーが腕章を着けていないことに気づいた。
腕章を持たない本サーバーのプレイヤーということは――
「大戦を生き延びた……古参プレイヤー!?」栞は驚きの声を漏らした。
「静かに! 一頭、こっちへ来てる」
女プレイヤーの表情が険しくなった。
栞の悲鳴を聞きつけた屍犬が、ゆっくりと花畑の奥へ入ってくる。
女プレイヤーが手で二度合図を送り、突然口笛を吹いた。すると花畑から巨大な虎が飛び出し、屍犬へ飛びかかり、激しく噛みつき合った。
大虎は一撃で屍犬の胸元に張りついた薄皮を引き裂いた。屍犬が振り向いて反撃しようとした瞬間、すぐさま押し倒す。大虎はその喉元に牙を食い込ませて激しく振り回し、ゴキッという音とともに首の骨をへし折った……そして、そのまま花畑の中へ姿を消した。
「もう安全よ。あなたは誰? どうして大聖堂に潜り込んでいたの!?」
女プレイヤーが問い詰めた。
「私は栞……。大聖堂の見学ツアーに参加したあと、地下道に閉じ込められて、やっとの思いで逃げ出したんです。教皇都市の外まで連れていってもらえませんか?」
栞は必死に頼んだ。
女プレイヤーは栞の腕章を見て身元を察すると、警戒しながら周囲を見回した。
「南大門まで戻って衛兵を捜せばいいわ。この花畑を真っすぐ走り抜ければ安全よ。一人で行って」
「あなたは逃げないんですか?」栞が驚いて尋ねた。
「無理よ……ドイツ人プレイヤーに捕まったら、私のほうが厄介なことになる」
女プレイヤーは眉をひそめた。
「大戦を生き延びた兵士だからですか!?」
栞は突然問い詰め、女プレイヤーの襟元を開いた。そこには、やはりギルドの紋章が刻まれていた。
女プレイヤーは驚き、すぐに栞を突き放した。
「双翼の魔導書……あなた、Kanatheonの人なんですね!!!」
栞は興奮のあまり涙を流した。
女プレイヤーの表情が険しくなり、その手にはすでに黒いマントが握られていた。
「私を見なかったことにして……」女プレイヤーが無表情で告げた。
「えっ?」栞は意味が分からず、聞き返した。
「私が助けた初心者は、あなたが初めてじゃない……。でも、以前その中の一人に居場所を売られた……だから今はもう……私の正体を知られたまま、誰かを帰すわけにはいかないの」
女プレイヤーは黒いマントを強く握り締めた。大虎はすでに栞の隣に現れている。
「あいつ、初心者用の腕章を着けてる。レベル50未満なんだろ?」
突然、一人の男プレイヤーが英語で尋ねた。
「早く伏せて、フール!」女プレイヤーが驚いて叫んだ。
「気にするな。この辺りの屍犬は全部始末した」フールは笑った。
「聞いてください! 私はあなたの居場所を売ったりしません! だって、私はあなたたちの同盟者だから!」
栞は必死に訴えた。
「同盟者? 何の同盟者よ?」女プレイヤーは眉をひそめた。
「私は……銀龍の刻印の秘密メンバーです!」
栞はとっさに嘘をついた。ノクシアから聞いた歴史によれば、Kanatheonと銀龍の刻印は最も重要な同盟関係にあったからだ。
「銀龍の刻印が……よくも私たちの前に顔を出せたわね!」
女プレイヤーは召喚杖を栞の喉元へ突きつけた。
「えっ!? 待って! 私は同盟者ですよ!」栞は焦りのあまり涙を浮かべた。
「私を馬鹿にしているの?」
女プレイヤーは召喚杖を栞の喉元へさらに強く押し当てた。
「早く殺せ。衛兵に気づかれたら面倒だ」フールが言った。
「待って! 本当のことを言います……。私は銀龍の刻印のメンバーじゃありません。ノクシアというプレイヤーと一緒にレベルを上げていただけです。私はレベル50にも届かない新米で、ゲームのことなんて何も分かりません!」
栞は両手を上げて降参した。
「ふざけるな! ノクスは黒い森の戦いで死んだ! あいつの死亡通知が表示されるのを、この目で見たんだ!」
女プレイヤーが怒鳴った。
栞は突然目を輝かせ、何度も瞬きをした。
「黒い森の戦い……本サーバーの連合軍が魔王と戦った戦いですよね!?」
栞の瞳が眩しいほどに輝いた。女プレイヤーの脅しにも怯まず、さらに問いかける。
「早く答えろ! ノクスがお前を寄越したのか!? アンドリアの指示を受け、Kanatheonの居場所を探らせるためだろう!」
女プレイヤーが再び怒鳴った。
「アンドリアは……死にました」
栞はうつむいた。
「死んだ!? いつだ!?」女プレイヤーとフールは、同時に驚きの声を上げた。
「分かりません。昨日、本サーバーを裏切ったプレイヤーから聞きました」
栞の表情には深い悲しみが浮かんでおり、嘘をついているようには見えなかった。
「寧々さん、こいつはかなりの情報を持っていそうだ。教皇都市の外へ連れ出してから話を聞こう」
フールが言った。
「分かった。ついてきて!」寧々は栞の背中を押し、フールとともに東門へ向かった。
...
猫好きの寧々でさえ、もう初心者を信じられなくなったのでしょうか……?




