388 無知な赤子
プラムス近郊の粗末な小屋――
ノクシアはシリアルの入った器を床に投げつけた。牛乳が床一面に飛び散るなか、ノクシアは自分の髪をかきむしり、頭を抱え込んだ。
男剣士はちらりとノクシアを見ただけで、再び地図に目を戻した。
女弓使いは何も言わず、黙って掃除を始めた。
「ノクシア、俺たちがレベル47になってから、もう一週間だぞ。本当にレベルを上げないつもりか?」
男剣士が尋ねた。
ノクシアは聞こえないふりをして、落ち込んだまま石像のように動かなかった。
掃除を終えた女弓使いは装備を整え、外へ出ようとした。
「おい、どこへ行く?」男剣士がぶっきらぼうに尋ねた。
「大聖堂よ」女弓使いは答えた。
「そんな遠くまで? 俺たち三人は他のプレイヤーから仲間外れにされてるんだ。あまり遠出しないほうがいいだろ」
男剣士は眉をひそめた。
「嫌われているのは、あなただけよ」女弓使いは扉を開けようとした。
「栞……大聖堂には、何か特別なものでもあるの?」
ノクシアが沈黙を破った。
栞は何か言いかけたものの、長いため息をついた。
「大聖堂の遺跡見学に申し込んだの」
二人は顔を上げ、信じられない様子で栞を見つめた。
「ドイツ人のために働いたのか!? そうでなきゃ、申し込みに必要な労働ポイントなんて持ってないだろ!」
男剣士が激怒した。
「私はただ、このサーバーの歴史を知りたいだけ……」
「行ってきな……。帰りに酒も買ってきて」ノクシアは静かに答えた。
栞はうなずき、そのまま出ていった。
「どうして行かせたんだよ!?」男剣士が不満げに問い詰めた。
「事実は……変わらない」
ノクシアは虚ろな目をしたまま、木椅子にだらりと身を預けた。
「ふん、くだらない」男剣士も立ち去った。
――それでも、時の流れには埋もれてしまう。
ノクシアは胸の内で、寂しさを噛みしめるようにつぶやいた。
...
百軒町――
「Hallo, junge Dame. Soll ich dir das Kämpfen beibringen?」
巨大な斧を担いだ狂戦士が、栞をナンパしてきた。
ドイツ語が分からない栞は、笑顔でかわそうとした。すると狂戦士は高級な魚鱗鎧を二着取り出し、気を引こうとする。
「Mir ist langweilig. Lass uns Spaß haben.」
狂戦士はあきらめずに食い下がった。
行く手を塞がれた栞が立ち去ろうとすると、狂戦士に腕を掴まれた。
その瞬間、初心者保護の力が栞の腕から弾け、狂戦士の手を強引に振り払った。
「へえ、レベル50にも満たないお子様か」
狂戦士は笑い、今度は栞の髪を弄んだ。
鋭い笛の音が鳴り響き、巡回兵の一人が狂戦士を厳しい顔で指さした。
狂戦士はすぐに両手を上げ、何もしていないと訴えた。
「怪我はないか、お嬢さん?」
ドイツ軍の巡回兵が英語で尋ねた。
「大丈夫です。ありがとうございます」栞は微笑み、町の中央広場へ向かった。
どの町にも、ドイツサーバーを象徴する鷲の噴水が設置されていた。初心者たちが無料で飲み水を得られる唯一の場所でもある。やがて初心者たちは鷲に親しみを抱くようになり、それを目印に集まるようになった。
栞は遠くから、噴水のそばに停まっている一台の馬車を見つけた。傍らにはワスティン大聖堂の案内札を掲げたシスターが立っている。
「すみません、これは大聖堂見学の馬車ですか?」栞はシスターに尋ねた。
「はい、勇者様。入場券はお持ちですか?」シスターが答えた。
栞は番号と日付が記された小さなカードを差し出した。
シスターは優しく栞の右腕を持ち上げ、カードと腕章の番号が一致していることを確認した。
「問題ありません。馬車のそばでお待ちください。あと01分03秒で出発します」シスターは微笑んだ。
馬車の両側にはプレイヤーたちが待機していた。片側には本サーバーの新米、もう片側にはドイツ語圏のプレイヤーが集まっている。
栞は自然に新米たちのほうへ歩いていった。
「大聖堂はとても荘厳で、遥か彼方まで白い宝石のような光を放っているらしいぞ!」
「俺も聞いた。四大王都に次ぐ、第五の王都で、だからサーバーも最後にはここを中心に発展したんだってさ」
「よく見ると、このドイツ人プレイヤーたち、かなり強そうだな!」
プレイヤーたちが口々に語り合う中、栞だけは黙っていた。
「間もなく出発します。最後の確認を行いますので、カードを用意してください」
馬車の上に立ったドイツ軍将校が告げ、兵士たちに全員の身元を確認させた。
ドイツ人プレイヤーたちが馬車へ乗り込んだ。人数は少なく、座席の半分しか埋まっていない。
栞が手すりを掴み、一段目に足をかけたところで、ドイツ兵に行く手を阻まれた。
「お嬢さん、君は馬車には乗れない」
「えっ? 入場券なら持っていますけど」栞は再びカードを取り出した。
「券を持ってるって? ははははっ! あの女、馬鹿なのか?」
「どうやって労働ポイントを手に入れたのか知らないが、参加規則すら分かってないのかよ」
「もしかして……娼館でバイトしたんじゃないか?」
「申し訳ないが、それは入場券でしかない。君たちは歩いて馬車の後ろについてきてもらう」
ドイツ人プレイヤーが答えた。
「でも、座席は半分も空いていますよね?」
栞は不満げに反論した。
「伍長、確認はまだ終わらないのか!?」
馬車の前方にいる将校が苛立った声を上げた。
「すぐに終わります、隊長!」ドイツ兵が声を張った。
栞は興をそがれ、カードをしまった。
「Lass sie einsteigen.」
馬車に乗っていた女司教が口を挟んだ。
「申し訳ありません。ですが、この者は――」
「参加規則には、徒歩で移動しなければならないとは書かれていません。それに、この馬車は定刻どおりに出発しなければならないのでしょう? あなたは行程を遅らせるつもりですか?」
女司教が問い返した。
「伍長、出発まであと10秒だ!」将校が叫んだ。
「名前を聞かせろ。記録しておく」ドイツ兵が尋ねた。
「エミラよ」女司教が答えた。
「分かった。乗れ」ドイツ兵は道を空けた。
栞はためらいながら、一段目に足をかけた。
「さあ、手を貸すわ」エミラは栞の腕を掴み、馬車へ引き上げた。
「確認完了です、隊長!」ドイツ兵が大声で報告すると、馬車はすぐに出発した。
「Danke」栞がうなずくと、何人かのドイツ人プレイヤーは笑顔を返した。先ほど彼女を嘲笑っていた者たちは、興味を失ったように顔を背けた。
町は次第に小さくなり、やがて見えなくなった。馬車は揺れながら北へ進んでいく。
ノクシアと出会ってからの三週間、栞は急速にレベルを上げてきた。しかし、ノクシアが「侵略者」と呼ぶドイツ人プレイヤーだけは徹底して避けていた。
それが今、彼らと同じ馬車に揺られながら、ようやく心置きなく美しい景色を眺めている。
草原は柔らかな風を受けて波打ち、その起伏には青空の冷たい光が薄く反射していた。
本サーバーのプレイヤーなら、その黒い影を見ただけで肝を冷やす翼騎士が、空の彼方を悠然と滑空していた、馬車に乗っているドイツ人プレイヤーたちへ手を振った。
馬車のプレイヤーたちは熱烈に手を振り返した。エミラに促され、栞も仕方なく周りに倣って手を振る。
ドイツ人プレイヤーたちは再び賑やかに語り合い、馬車の中は楽しげな空気に包まれた。
栞はわずかに腰を浮かせ、馬車の後ろを歩く本サーバーのプレイヤーたちを盗み見た。
彼らは疲労を露わにしながら、栞へ敵意のこもった視線を向けていた。
その瞬間、栞には馬車の後ろを歩く仲間よりも、馬車の上にいる侵略者のほうが親しみやすく思えた。
栞が見知らぬ大地から目を離さずにいるうちに、いつの間にか一時間が過ぎていた。
「Meine Damen und Herren, wir sind an der Wastin-Kathedrale angekommen.」
将校が告げた。
意味が分からない栞は、戸惑いながら周囲を見回した。
「ワスティン大聖堂に着いたのよ」エミラが通訳した。
栞が立ち上がると、ようやく大聖堂の遺跡が見えた――そこにあったのは、黒焦げになった死都だった。
ワスティン大聖堂は栞が想像していた姿とはあまりにもかけ離れていた。目の前の廃墟は、かつてムー大陸の中心として栄え、伝説に語られる聖白の都だったとは信じられないほど荒れ果てていた。それでも、その規模だけは圧倒的だった。
栞は拳を握り締めた。何がこの都を滅ぼしたのか、自分の目で確かめるつもりだった。
だが、これから彼女に本サーバーの歴史を語るのは、本サーバーの者ではなかった。
皆さんは、自分が遊ぶサーバーの歴史を知りたいと思いますか?




